『今日の20:30に新木場駅の事務所で待ち合わせしよう。』 いつものようにメールが届いたので、西武池袋は『わかった。』と簡単にメールを返しておいた。 そのメールが届いたのはお昼前だったので、西武池袋は約束を前提に業務を片付けていった。幸いなことにトラブル もなかったので、山積みになった書類を整理したり報告書をまとめたりして午後を過ごした。秋の始まりの涼しい風と相 まって、西武池袋は上機嫌であった。明日は休みだから二人でゆっくりと過ごせるだろうから朝食は何を作ろうかと、浮 き足立っていた。有楽町の好きな甘めの卵焼き、まだ残っていたはずの海苔、スーパーが開いていたら魚も買おう、あ じの開きがいいかな、なんていつもの冷たい顔の下にのろけ全開で想像していたなんて周りの職員は一切気付かな い。 少し早かったが浮かれていたので、20時過ぎ頃に西武池袋は新木場駅の事務所にいった。数社が利用する事務所 は休憩所や待ち合わせ場所として使用されることが多く、営業時間内は誰もいなくても鍵が開いていることがほとんど だ。事務所内のロッカーは管理する各社が鍵をもち、重要文書や個人情報が保管されているものに限って常時鍵がか かっている。 今日も開きっぱなしのドアから中に入る。誰もいないだろうと想像していた事務所には、以外にもゆりかもめがいた。 「おう、西武池袋。おつかれ。」 「・・・ああ。」 西武池袋はゆりかもめに構うことなく、若干離れた席に我が物顔で座った。安物の事務用パイプ椅子がぎしぎしいう。 ここに駅をもつ路線はそれぞれの低位置があると有楽町に聞いて以来、西武池袋は誰かの指定席を避けるようにして いた。それは西武池袋のマナーであり気遣いであり、自分の定位置を作るためであった。今では西武池袋の指定席は よほど混雑でもしていない限り誰も座らない。 ゆりかもめは西武池袋に挨拶した後すぐに机に視線を戻し、書類を読みながらなにやら書き込んでいた。西武池袋 はゆりかもめに興味がないので話しかけることもなく、携帯電話を開いく。ようやく二つ折り携帯電話になれたばかりな のにスマートフォンに切り替える決心が付かず、西武池袋の携帯は古い機種のままである。液晶画面が光るが、有楽 町からのメールは着ていなかった。『新木場に着いた。』と、それだけメールを送っておく。かちかちと携帯電話を叩く音 が静かな部屋に充満する。 「待ち合わせ?」 顔をあげたゆりかもめと西武池袋の視線がかちあった。相変わらずきれいな顔をしているな、と西武池袋は淡々と感 想をもった。 「そう。」 ゆりかもめは短い答えを受けたあと席をたった。書類は机のうえのままなので戻ってくると思われたが、このまま帰っ てくれればいいと西武池袋は願った。 西武池袋がぼんやりしている間にゆりかもめが戻ってくる。先ほどまで開けっ放しになっていたドアが閉まった。それ からピッと電子音がしてエアコンが稼動し始める。 「これ、一本やるわ。」 突如差し出された冷たい缶コーヒーに西武池袋はとまどった。 「施しは受けん。」 「じゃ、捨てるか。」 ゆりかもめの態度は冷ややかで平坦で、わざわざお茶を一緒にしようという態度ではない。そのままにすれば本当に ゴミ箱に捨ててしまいそうだったので、致し方なく西武池袋は缶コーヒーを受け取った。プルを起こして一口飲む。ゆり かもめは元の席には戻らず、西武池袋の隣のパイプ椅子に腰掛けた。やはりギイギいうるさい椅子に、ゆりかもめの ように華奢な人間が座っても音がするのかと西武池袋は妙に驚いた。 「なあ、待ち合わせは何時?」 「・・・20時30分」 「ふーん、そう。」 それからゆりかもめは再び立ち上がり、携帯電話を持って部屋の外に出た。西武池袋は特に気にしないが、もらった コーヒーをちびちびと飲みながら手持ち無沙汰に有楽町を待っている。有楽町は律儀な男である、何も心配はなかっ た。 しばらくして戻ってきたゆりかもめは上機嫌でドアを勢いよく閉めた。そして足取り軽やかに西武池袋の隣に再び座 る。西武池袋は美少女の外見をしたゆりかもめを、他の路線よりも近い距離まで立ち入ることを自然と許していた。警 戒心を持つことをためらわす、弱者の容姿がゆりかもめの凶暴性をうまく隠している。 「さっきの、微糖でよかった?」 「うむ。」 小さな缶の中身なんて注意しなければあっという間に飲み干してしまう。普段なら口をつけて一気に飲み干してしまう 量だが、手持ち無沙汰な時間を潰すために、西武池袋はちびちびと飲んでいた。仕事の疲れもでてきてぼんやりして いるので、隣のゆりかもめが西武池袋をじっと見つめていることまで気付かない。 「エアコン効いてきたな。」 今日はそれほど暑くないのにエアコンをつけるなんて勿体無い、と貧乏性の西武池袋は思ったが、他社の経費にま で口を出すつもりはなかった。第3セクターは業績がよいのか?なんて嫌味をいうつもりもない。 「・・・聖書に、神様が世界を滅ぼす際に各生き物をそれぞれ1つがいだけ箱舟にいれて残したって話があったよな ぁ。」 西武池袋はゆりかもめの突拍子もない話の始まりに聞こえないふりをしたが、ゆりかもめは西武池袋を見つめつつ 話を続ける。 「箱舟に入れられた生き物は最初からつがいだったのかな?もしかしたら、ヒトが選んだオスとメスをつれてきたんじ ゃないのかな。」 いい加減話がみえず、西武池袋はゆりかもめの顔をみてやろうと横をみた。ゆりかもめはいたって楽しそうに、いつ もの悪がきの顔で西武池袋をみつめていた。 「今日は誰も新木場にいねえんだよ。」 なんの恥じらいもなくいうならば、このとき西武池袋は恐ろしくなった。生き物として、ゆりかもめに何か危害を加えら れるのではないかと怯えた。ただし、力関係を脳内で再確認して怯えを振り払う。生き物としての直感から目を背けた。 「今日、りんかいは会社の飲み会、埼京は川越で会議、京葉は夏季休暇で、武蔵野はー・・・もともとあんまりこっちに はこねえな。」 新木場のメンバーの中ではゆりかもめが女王様なのだと西武池袋にも知っていた。ここはゆりかもめが神様として君 臨する小さな世界だ。 「もしも今世界がなくなっちまったら俺とお前がつがいになるんだねえ。」 「外の世界がなくなるはずなかろう。」 ため息交じりの面白みのない返答にゆりかもめはますます楽しそうに顔を崩す。彼の手の中には西武池袋の知らな い切り札があるのだと察せられた。 「目に見えないドアの向こう側のことまで責任を取れるか?もしかしたら、有楽町が中で何かやってんじゃないかと考 えて、ドアを開けられずに立ち尽くしてるかもなぁ。」 背筋に冷たい汗が流れ、西武池袋は勢いよく立ち上がり、取り乱しながら事務所のドアを開けた。しかし、そこには有 楽町も誰もいない。節電のため薄暗い廊下にぽつぽつと電気がともされているだけだ。 「あははははっ!あのお高い西武池袋さまでもそんなに慌てるんだなぁ!」 西武池袋は先ほどの取り乱しようをなかったかのように落ち着いた素振りをみせながら席に戻った。いつも通りのス ピードで腰掛ける。 「有楽町はこねえよ。来れなくしてやったからな。」 時計はもう21時を回っている。携帯を開くが有楽町から連絡はきていない。西武池袋はゆりかもめを信じなかった が、現実問題として有楽町は来ていない。いつもなら遅れても必ず連絡があるのに。『仕事か?遅れそうなら先にマン ションに戻っていようか?』精一杯の柔らかさを混ぜて作った短文には、助けを求める悲壮さがにじんでいる。いま西武 池袋はゆりかもめの支配下にあって身動きができない。有楽町とは連絡が取れないから事務所を離れがたく、かとい ってここにいてはゆりかもめのいいようにされてしまう。 西武池袋が携帯でメールを打つ間に、ゆりかもめは冷凍庫をあさっていた。そして、誰が買ったかわからないアイス を二本取り出し、一本を西武池袋に渡す。 「食うか。」 ためらいがちに受け取った西武池袋には、何がなんだかもうわからない。有楽町からの連絡はこないし、自分は普段 食べないはずの氷菓子を受け取って何の考えもなくかじっているし、ゆりかもめは少しずつ距離をつめてくる。誰を信じ ていいのか決められず、小さな箱庭の中で迷子になってしまって、目の前の相手とお手軽につがいになってしまいそう な気がして空恐ろしかった。 (2011.9.11) |