あみだくじ
始発前の駅の空気は澄んで冷たい。温度が低いこともさることながら、まだ人の動きがない空間には夜の時間が切
り取られたように、朝日の世界から取り残されている。
「うー、ちょっと寒いね。」
「わざわざこちらに寄る必要もなかろう。さっさと自分の事務所をあけてこい。」
西武の事務所にはまだ西武池袋一人しかいない。もう30分もすれば駅員が来ることを、有楽町は習ったわけではな
いが、慣れで知っている。貴重な二人きりの時間だ。
「俺は今日早番じゃないからいいんだ。」
「早番ではない?なら、なぜこんな時間にここにいる。」
有楽町と話をしながらも西武池袋は朝の準備の手を緩めない。決済が済んだ書類はファイルにつづり、ぞうきんをか
け、Eメールのチェックをする。
「ねぇ、西武池袋。エアコンつけていい?」
「軟弱な。」
「そうはいってもさー、なんか肌寒いんだよ。」
「うちはつけない。営団はこれだから。」
「えー、寒いんだよー。」
二人っきりだと子供のように甘えてくる男に、もう四十路だろうと注意しようとしたが、そういえば西武秩父と大差ない
年なのだと思い直し、不要な裏紙を一枚取り、さらさらといくつか線を書いた。
「ちょっとみろ、有楽町。」
そこには、「H」、「キス」、「ハズレ」と書いてあった。
「なにこれ?」
「今からアミダをしよう。」
棒を3本と横線を数本かき、紙の下半分を折って見えなくした。「ほら、好きなのを一つ選べ。あたったのを今からしよ
う。」
「え?それ、ほんと?」
「あたればな。」
有楽町は3本の傍線を見て深慮を始めた。現実的に考えて、Hにあたっても時間がきびしい。でも、もう少し手前のこ
とくらいさせてくれるかもしれない。というか、フェラチオくらいしてくれるかもしれない!と興奮で主張を始めた下半身を
できるだけかくしながら、神様仏様会長様!と祈って悩みにゆれる指先を一本のところでとめた。
「これでよいのか?」
「え、えーっよ、ちょっと待ってね・・・。やっぱり、こっち。」
先ほどのものではない一本を指差し、有楽町はこれで変更なし、といった。
「じゃあ、ご開帳といこうか。」
西武池袋は淡々と、たたんであった紙を開く。有楽町は期待を大いに膨らませながら、結果発表を待つ。
「そうだな・・・・・・残念、ハズレだ。」
「そっかぁー・・・。」
がっかり半分、諦め半分で有楽町は西武池袋の手元を覗き込む。
「どれがあたりだったの?」
「おい、見るんじゃない!」
西武池袋はさっと隠したが、有楽町からは容姿が見えてしまった。
「H」「キス」のところには線が惹かれておらず、全てハズレに繋がっていたことを。
「・・・・・・なんだ、全部ハズレだったのかぁ。やっぱり、そうだよなぁ・・・・・・。」
落胆にまみれた有楽町に、西武池袋は少し慌てて有楽町のワイシャツの袖をつかんだ。
「だって、考えても見ろ。お前にいい話ばっかりで私にはメリットがなかっただろう?ちょっとしたお遊びだよ。」
「西武池袋は俺とキスとかHとかしたくないの?イヤだったの?今までも?」
「いや、そういうことじゃなくって・・・・・・」
うーとか、あーとか、うなった後に、西武池袋はにぎっていたワイシャツの袖をぐいっと引っ張って、自分のほうに有楽
町を引き寄せた。
「別に、嫌といったわけではないだろう!」
それから、ちゅ、と触れるだけというにはぴったりと唇をあわせた後、有楽町の袖を離し、バンと体を押した。
「・・・・・・あはは、結局、くじあてちゃったね。」
「うるさい。さっさと自社に戻れ。」
「だから、早番じゃないんだって。」
「ならば家に帰って寝ておけ!」
「うん、そうしようかな。オフィスラブの余韻に浸りたいし。」
「うーるさいー!」
西武池袋が大分興奮して機嫌が悪くなってきたので、潮時かと有楽町は事務所から名残惜しそうにしながらも出て行
った。
有楽町が出て行った後、内側から鍵をかけ、西武池袋ははぁーとため息をついた。
「うるさいから、ちょっと構ってやろうと思っただけなのに、なんであんなことしてしまったんだ・・・・・・。」
ぼやきながら、途中だった始業の準備の続きを始める。Eメールをチェックし、判断が必要な案件か見ていると、有楽
町からのメールがあった。
「うわぁぁ!」
そのメール自体は、東上や副都心にも送られているきちんとした仕事の用件なのだが、妙に気恥ずかしくて、変な声
を上げてしまう。
添付資料をプリントアウトしながら、西武池袋は先ほどまで有楽町が座っていた席に腰掛、有楽町の視線で西武池袋
を見てみる。
そこには、打算的に愛を果てなく求める自分がみえて、西武池袋は急に現実に引き戻された。
「もうそろそろ、時間か。」
これから出社する社員のため、先ほどかけた鍵をあける。もしかしたらドアの外にはまだ有楽町がいて、西武池袋の
機嫌が直るのをいまかいまかと待っているのかもしれない。それはアミダを引くようなものだが、西武池袋は最初から
賭けに乗らない。舞台に立たない。
今日も、ごく普通の一日が始まる。
(2013.9.10)