醜形恐怖
生まれたときから武蔵野は既に妙齢だった。
女性にしては高い身長と、すらりと伸びた手足は、短く整えられた髪と相まって彼女の性別をわからなくしていた。顔
立ちは並であったが、そのことが彼女の悩みをますます深めた。
(せめて、女性らしい顔立ちであったのなら男と間違われることもなかっただろうに。)
華奢な男性に見られることが多く、沿線の女学生から手紙をもらったことさえある彼女は、鏡を見てはため息をつい
た。最低限の化粧道具と鏡を前に、武蔵野はうつむく。
うっすらと化粧を施しても、武蔵野が女性に見られることは少なかった。男性ばかりの職場に化粧の匂いを漂わせる
ことに嫌悪感があったし、こってりと塗りたくったところですぐに汗で崩れてしまう。
それに、化粧をして女装した男性のようになるのが怖かった。
「・・・きれいになりたいなぁ。」
自分より背の低い東上を恋焦がれては、武蔵野は落ち込む。並ぶと衆道の兄弟に見られてしまっては、男を好きと
いう勇気がなかった。こんな男のような自分が愛を告げ、失望されることが恐ろしかった。その恐怖は武蔵野の涙を誘
い、手ぬぐいを目頭に押し当てる。
(美人は得だな。)
ぼろぼろと泣きながら武蔵野はもう一度鏡を見る。何度見直してもそこには男のように見える女が一人、まぶたを腫
らした不恰好な顔をまぬけにさらしているだけだった。
東京に戦火が近づく中、西武池袋は用があって東武鉄道本線に会いに行った。
「あ、西武池袋!久しぶりだね、元気?」
「・・・元気なわけなかろう。」
「あはは、わかってるんだけどさ、景気づけ。」
伊勢崎は目の下にくまを作りやつれた顔をしていたが、それでも西武池袋に明るく振舞ってみせた。
「またどうしたの?中心部の方は危なかったでしょ。」
「今日は空襲警報もなかったから大丈夫だ。それでだな、これを貴様のところの社長に届けて欲しいのだが。」
しっかりと封をした封筒を取り出した西武池袋の真剣な態度に、伊勢崎も真面目な顔をして受け取った。幼顔で頼り
なさげに見える伊勢崎も、こうしてみれば本線としての威厳と風格を漂わせている。
「池袋の貧乏路線ではなく、直接本線に渡せとのおおせだ。」
伊勢崎が西武池袋の顔をじっと覗き込む。背の低い彼では覗き込むような格好になった。
「そんな心配そうな顔しなくても、ちゃんと渡すよ。」
西武池袋は穏やかな伊勢崎が嫌いではない。せっかくここまで来たのだしお茶でも貰っていこうかと考えていて、その
ための手土産を渡した。
「駄賃だ。」
それは西武池袋の沿線で取れた栗で、伊勢崎の沿線でも取れるだろうが、西武と違い家族の多い東武ならば喜ば
れると思って持ってきたのだった。
「わー!栗だ!ありがとう西武池袋!」
案の定伊勢崎は破顔して喜んだので西武池袋も表情を緩める。
「ちょっとこれ、日光にも見せないと!」
「えっ、いや、伊勢崎、日光は・・・」
「おーい!にっこー!西武池袋が栗持って来てくれたよー!」
西武池袋の制止も聞かず、伊勢崎は声高らかに日光を呼んだ。彼にとって日常に過ぎないのであろう、日光を呼ぶ
声が西武池袋の耳にも鳴り響く。
西武池袋は日光が苦手だ。苦手というか、今の彼を見たくないだけなのだ。戦争が始まってから西武池袋は日光に
会ったことがないが、戦前の彼はまぶしいほどの美貌を周囲に撒き散らしていた。日光は元から女に興味も関心もな
い男だから、西武池袋も直接話すのは苦手だった。立場上直接話す機会には何度か恵まれていたが、日光と話すと
口もうまく回らないし目線が怖いし、いいことはあまりなかった。
それでも、各社の女子社員やら通りすがりの女性客やらが色めき立ったように、西武池袋の心もそわそわした。恋より
憧れに近い、アイドルを見るように西武池袋は日光にときめいた。
だから西武池袋は戦争で疲れた日光を見たくなかった。あれほど健康に恵まれて明るかった伊勢崎すらじっとりと暗
い何かを背負っている。煤とか粉塵とか、諦めとか死の匂いとか。そういうものに憑かれてきれいな顔を持ち崩した日
光を見るのは、アイドルの凋落を見るのと同義であった。たとえ彼が今も走っていたとしても、西武池袋にはあのきれ
いな日光でなければ日光でないのである。
なのに、西武池袋の心中など一切おもんばからない伊勢崎は容易く日光を呼びつけた。
「うっせーよバカ崎!バカデカい声出さなくっても聞こえてんだよ!」
「じゃあ返事でもしなよ!ほら!お礼いって!」
力なく愛想笑いを浮かべる西武池袋に日光の視線が向き、西武池袋は息を飲んだ。
「東上んとこに武蔵野か。」
「違うよ!今は西武池袋!」
「・・・あー、はいはい。ありがとーございます。」
「その言い方はないよ!もっとちゃんとお礼いってよ!」
名前を間違えられても、適当なお礼を言われても、西武池袋の耳に全く入っていなかった。彼女は、戦前と変わらな
い彼の顔を注視していた。
彼はかわらずきれいだった。
肌は変わらずきめこまかく、白目はしろくすきとおり、まつげも髪も黒くふさふさとしていた。日本中を侵食する戦争の
汚れですら、そこだけは神様によって許され守られているかのように彼の美貌を侵食することはない。
途端、西武池袋は自分が恥ずかしくなった。日光は今も美しいというのに、自分は昔からずっと美しくないままなの
だ。
「西武池袋、ちょっと寄って行かない?白湯くらいだせるからさ!」
ようやく振り向いた伊勢崎は、蒼白になった西武池袋に気付いた。
「大丈夫?具合悪くなった?」
具合が悪いなんて当たり前の時代だったけれども、急に顔色を豹変させた西武池袋を伊勢崎は優しく心配した。
「・・・なんでもない。帰る・・・。」
「気をつけてね?あ、あとよかったらこれ持っていって。」
「いい、持って帰れないから・・・。」
普段ならば、「貧乏路線から施しは受けぬわ!」というところの西武池袋の不調に伊勢崎も心配しつつ、国鉄に乗ると
ころまで送っていった。
「山手に送ってもらおうか。」
「・・・いい。」
「そんなわけにいかないよ、女の子なんだから!」
普段女性扱いの素振りも見せぬ伊勢崎の意外な対応に驚いたが、西武池袋はそれ以上何も出来なかった。気持ち
悪い。駅舎を出たところまで日光はこなかったから少しは安心したものの、足取りは変わらずおぼつかない。
「とりあえず、ベンチ座ってて・・・あー!山手!いいとこにいた!」
偶然居合わせた山手が無言のまま西武池袋の手をとった。
「西武池袋が具合悪いみたいなんだ。池袋まで連れてったげて!」
「わかった。」
山手の腕が西武池袋を掴むように担ぎ上げてベンチから起こす。気分が悪いといっても体調が悪いわけではないの
に病人扱いされて、西武池袋には奇妙だった。
(私は美しくないのに。)
優しくされるほど美しくないと思っているからこそ、優しさが染みた。それは、あまりいい意味ではなく。
池袋駅には東上がたまたまいて、山手から西武池袋を受け取って自分の休憩室に連れて行った。
「ろくなもんないけど、ほら。」
野菜が入った味噌汁をゆっくりと嚥下しながら、西武池袋は東上を熱っぽい目で見つめた。二人きりで同じ部屋にい
るのは珍しいことではないのだけれど、それだけで魔法にかかったようにふわふわと浮き立ち、体の芯をじんと痺れさ
せる。
「おまえんとこで何かあったら教えてやるからよ。とりあえず寝とけ。」
ふとんをかけられた西武池袋は気分が良くなっていたが、口にせず東上の背中を見ながら眠るふりをした。東上は西
武池袋が寝たものだと思って部屋を出て行ってしまうが、西武池袋の体を包むのは大好きな東上が普段使う布団だ。
西武池袋は一粒二粒泣いた。あんな美しい本線を持つ東上が自分のような女を好きになってくれるとはとても思えな
かった。
(きれいになりたい。)
美は力だ。家をなぎ倒す台風のように、東京を焼く空襲のように、きれいなものはそれ自体が暴力そのものなのだ。
戦争が終わって、高度経済成長の時代に入り、会長の手広い商売は西武鉄道を中心に夢のような大金を稼ぎ上げ
た。自分の決算の度に、西武池袋は嘘ではないかと我が目を疑う。廃線と隣り合わせだった武蔵野鉄道の面影をすっ
かり失い、多くのグループ企業の土台骨として、生活費の他に自由になる金まで渡された。
ある夜、雑誌を見ていた西武池袋はある記事からいいことを思いついた。
(そうだ、この顔をきれいにしてしまおう!)
化粧水も化粧品も、西武池袋を思ったほど美しくしなかった。
ならばもっと根本的な方法で西武池袋が夢見た顔に、切れ長の美しい顔に。長身で細身の西武池袋のスタイルは戦
後もてはやされる女性達に近く、顔さえきれいにできれば西武池袋はもう誰にも引け目を感じなくてよくなるはずだっ
た。東上の身内の、あのきれいな日光にも。
そのため開業以来私生活では初となる大決心をして手術を施した。
大仰にまかれた顔の包帯に莫大な不安を抱きながらも、包帯を取ったとき西武池袋は息を飲んだ。
整形したことに対する世間の非難ばかりわめきたてる幻聴も耳に入らず、西武池袋は手に入れた美貌に見入った。
ひとまわり大きくなった目は二重でぱっちりしているが目じりがすっとしている。頬骨も削り整った輪郭に、以前よりふん
わりとした唇が愛らしく開き、小鼻は小さく鼻筋が通った。
「わたし、きれい?」
鏡の中の西武池袋はにっこりと微笑んで答えた。きれいよ、と。
おしろいをはたき、眉を書いて口紅を塗れば女優のように美しい見知らぬ女が満足げに西武池袋自身を、そして世間
を見下ろしている。その視線を、西武池袋はうっとりと受けとめた。
それから西武池袋は和ダンスを開き、ありったけの着物を広げる。給料が出るようになってから買ったものの、男の
ような自分には似合わないからと諦めた赤い振袖青い振袖黒い振袖。羽織って鏡の前に立てば、どれもこれも今の西
武池袋によく似合った。
着物だけでは飽き足らぬ、と西武池袋は洋服を買いに行くことにする。普段は西武デパートに行くところを、今日は美
しく作り変えた顔を見せびらかすために銀座まで行くことにする。丸の内線に乗ったが、丸の内には会わなかった。少し
残念だが西武池袋の心は浮き足立っていてそれどころではない。
過ぎ行く男がみな振り返って西武池袋をみた。立ち止まっているとき華奢な肢体はマネキンのようで、ひとたびあるけ
ばしなやかな足がハイヒールを飼いならす。不均衡なほど長い手足の体の上にはこれまた不均衡などほど小さな頭が
乗っていて、そこには作り物の美しい顔があった。
西武池袋は幸福の充実の嵐の中にいた。男は恋や欲にまみれた視線を西武池袋に投げかけ、女達は嫉妬にまみ
れた視線を寄越す。
今なら空だって飛べるような気がした。
西武池袋の変貌は私鉄に騒動をもたらしたが、三日もみれば美人も慣れるとはよくいったもので一年もたつ頃にはも
う西武池袋に顔について聞く路線もいなくなった。
美しい西武池袋の微笑のために贈り物が山と届く。西武池袋は暴力に類するもののほとんどを持っていた。会長を
後ろ盾とした権力、グループを財源とする財力、男も女もひれ伏させる美。
西武池袋の興味を引きたい愚か者達の列から、西武池袋はいつだって一人だけを探していた。整形をした頃から次
第に縁遠くなってしまった東上が、いつか自分のところに戻ってくるのではないだろうかと淡い期待をずっと持っている
のだけれど、東上は顔を合わせば罵詈雑言を並び立てるだけになってしまった。昔から喧嘩ばかりだったけれど、ニュ
アンスが違うのに西武池袋はゆっくりと気付いていく。
何がいけなかったのか、西武池袋にはわからない。私は今ならなんだって持っているのに、今の私なら連れていても
恥ずかしくないのに、そう叫んでも東上はもういない。正解と信じて選んだ道の先に答えがなくて、西武池袋は不安と恐
怖の海に足をとられて座り込んだ。
ぐずぐずと不安と怠惰に身を任せて何年もたってしまった頃、世間話が好きな路線がおせっかいにも「有楽町は西武
池袋のことがすきなんだって。」と告げてきた。
誰が口説いても一切なびかない西武池袋が、次こそは屈するのではと期待していろいろな話を持ってくる男を西武池
袋は心から軽蔑し、それでいて信用している。
「あ、そう。」
有楽町は、毎日の漠然とした退屈、停滞、汚染といったじっくりと西武池袋を侵していく日常から、西武池袋を救い出
すような劇物ではない。
西武池袋の興味なさそうな素振りに、おせっかいな路線もあっというまにその話に興味を失ってしまった。その路線は
美味しいもの、ゴシップ、ショップに並んだ素敵な家具、人身事故、汚物といった話を好きなだけまくしたてて帰っていっ
た。その間西武池袋は何も言わずに相槌をしていただけだというのに。
一時西武池袋の相手をした路線が帰って行った後、西武池袋は手鏡を取り出して顔をまじまじと眺めた。油とり紙で
抑えたあと化粧水をスプレーし、お粉を軽くはたく。それから顔色が映えない気がして口紅とチークを塗りなおした。そこ
には西武池袋が夢見た美貌が今も他人事のように鎮座している。
「鏡よ鏡、世界で一番美しいのはだあれ?」
たっぷり数十秒、沈黙したまま鏡を見守った西武池袋は大きく息を吸い込み、それから気が狂ったように声をあげて笑
った。
「魔女の私に、王子様なんてくるわけないんだ。」
(2010.10.20)