内辞の日。 それはサラリーマンにとって運命の日であるが、まだ若い有楽町は関東近郊で異動したことはあったが引っ越したこと がないのでその悲劇性をよくわかっていなかった。 そんな彼に、運命の日は唐突に明確な姿を見せて鉄槌を落とす。 「カイロ支社に行ってくれ。」 上司のその一言を断れるものならば、サラリーマンなどやっていない。 「・・・わ・・かりました・・・けど。」 なんとなくいいたいことを察して上司は先に言った。 「そんなに長くないから。」 それは、何年になるかわからないってことだよなぁ・・・と諦観しつつ、有楽町は歯を食いしばった。これが現実ってや つだ。 かくして、都内に住んでいた有楽町は初めて23区外に住むことになった。それが、いきなり地球の裏側みたいな遠いと ころへ。 それはそれで別にいいのだけれども、有楽町には結婚を約束した彼女がいた。彼女も仕事をしているから付いてき てくれ、とはいえない。しかも、アメリカやヨーロッパならともなく異国情緒溢れるエジプトである。 「今はテレビ電話もあるし、インターネットがあるじゃない。帰ってくるのを待ってるから、戻ってきたら結婚しましょ?」 ものわかりのいい優しい彼女に有楽町は不覚にもぼろぼろと泣いてしまった。 「大変だと思うけど、がんばってね。いっぱい電話もメールもするから。」 彼女となら大丈夫だ、と有楽町は意味もなく思った。それは彼女も同じだったらしく見詰め合って笑いあう。 入籍はしないけれどエンゲージリングだけ約束だからといって二人で購入し、戻ってくるまでお互い大事に持っていよ うと誓い合って、成田で別れた。 固く、固く、誓いを交わして。 会社から渡された切符は直行便だったけれど、それでも遠くてエコノミー症候群になりそうになりながらようやくカイロ 国際空港に到着した。空港からして、エジプトは日本の常識を超えた国だった。 空気の匂いがまず違う、「しょうゆくさい」とか言われる成田を思い出してホームシックになりそうになりながらも、有楽 町はこれから住むマンションに向かった。官公庁街で警察官も多いく、治安も悪くない場所でそれなりにいいマンション だったけれども、やっぱり一人の家は寂しかった。空気がほこりっぽい気がして、初めての晩はマスクをして眠った。乾 いた空気と、聞きなれない音に眠れる気がしないけれど、長旅に疲れた体はすぐに眠ってしまった。 翌朝、おきて初めてカイロ支社に出社してみれば、エジプト人は明るくて、それに感化されたのか日本人社員まで明 るかった。へとへとになるまで構われて、昼食にはコシャリを食べに人気店に連れて行かれその安さに驚愕した。その 晩は飲みにいって、エジプトビールを飲み、イスラム圏だけれど観光客が多いから外国人には楽だよ、といわれここで は自分が外国人なんだなぁと改めて思ったり。 あっという間にホームシックも忘れ、有楽町はカイロ生活を満喫し始めた。特有の訛りはあるが英語がどこでも通じる ので、それなりに英語のできる有楽町はなんとか支社にも馴染み、夜はさびしさを紛らわすように遊びにでかけた。 そんな中、有楽町は今度の休みに砂漠にいかないか、と誘われる。 「砂漠?」 「そうそう、砂漠。二日あれば行って帰ってこれるって!感動するらしいよ。」 日本人の同僚にそういわれて、エジプトには砂漠があることをガイドブックで読んだな、とようやく思い出す。 「でも、砂漠って怖くないか?半蔵門。」 入社すぐにカイロに配属になったという後輩は本社のお偉いさんの縁故で入っていてろくでもない馬鹿だという噂だっ たが、初めて同じ職場になってみればムードメーカーで憎めない奴だった。あまり仕事が出来るほうではないが、数値 にできない部分で彼の力が発揮されていることはたしかにあって、日本よりも国外においておく方が、周りのためにも 何より本人のためにもなっているようだった。 「ツアーで行けば全然問題ないってよ。観光地だって。」 「砂漠ねー・・・。」 有楽町は正直あまり乗り気でなかったのだが、半蔵門があんまり無邪気に楽しそうに笑うし話しのネタになるかなと 思って同行することにした。 それが、よくなかった。 少しなら離れて歩いても大丈夫ですよ、とガイドに言われて砂遊びに夢中になっている半蔵門を置いて近くをうろうろ していた有楽町は、空気が変わったような奇妙な感覚に囚われた。乾いた空気が無風にたゆたう砂漠で空気が変わる なんてはずないのに、有楽町はその感覚を疑わなかった。 そこから、有楽町の生き地獄は始まる。手荷物といえば財布とパスポートだけ。そんななかで「どこかへいってしまっ た」車とガイドと他の旅行客を探すのは、死の行軍に他ならなかった。 有楽町はもう狂いそうだ。一滴でいいから水が欲しい、皮膚の下に流れる自らの血でもいいからのどを潤したいと、も う水のことしか考えられなかった。いっそ早く死ぬか狂ってしまいたいと思うのに、薄皮一枚のところで有楽町は正気を 保ってしまっている。それが辛くてたまらないのに、当然涙はもう出ない。息をするのすら苦しいというのに、意識がなか なかなくならない。 何度も何度も陽炎の中にオアシスを見た。有楽町は実際にオアシスにいったことはないから、イメージの中のオアシ スだろう。椰子の木のような、乾燥と暑さに比較的強そうな植物がまばらに生え、その中に石造りの小さな町が見えて は追いかけ、追いつくとその町は消えた。 だから、真っ白い建物らしきものが見えたとき、有楽町はもう諦めていた。あれに向かっていったところで結局幻影に 過ぎないのだろうと思っていたけれど、水を求める体は有楽町の静止も聞かずに歩き出す。砂に足を奪われながらず りずりと歩いても、建物は近くならない。有楽町はもう何も考えられず歩く亡者になって、陽炎に縋って歩き続ける。 どれだけ歩いたのかわからないが、有楽町はその建物が次第に大きくなってきていることに気付いた。遠くおぼろげ に「白い」としかわからなかったが、丸みを帯びた「宮殿」とでもいうべき建物であることがわかってくると、有楽町の足は 早まった。 死にかけた体は火事場の馬鹿力をみせ有楽町の体を愚直に引っ張っていく。ただただ歩き続けて、太陽の下極限状 態の本当に最後の一瞬に、有楽町はその宮殿にたどり着いた。 「・・・本当に、あった。」 けれど、その宮殿に人気はなく静まり返り、人が生活している気配がなかった。有楽町は己の悲運を笑う力すらなく、 石畳に崩れ落ちた。 何かが自分の近くで話している。 目を覚ました有楽町がおぼろげに感じたことは、女性の声だった。囁くような、いうなれば給湯室で噂話をするような 声が小さく、けれど近くに聞こえる。 ああ、ついに天国にきたのかと思い、一目見ようと有楽町は薄く目を開けた。 そこに飛び込んできたのは、濃い青空だった。作り物じみた色彩に有楽町はなんの疑いも抱かない。目を開けている のは辛いのでもう一度閉じたとき、囁き声が大きな声になった。この雰囲気もしっている、ゴキブリを見つけたときの彼 女の叫び声と同じだ。 「お前達!病人の近くで騒ぐんじゃない!」 ひときわ大きな声が聞こえた。今度は女性ではなく成人男性の声だ。じゃあ、女の声は天使か天女で、男の声が神 様なんだろうな、と有楽町は納得し、再び深い眠りへと落ちていった。 ぼんやりと再び目を覚ましたとき、有楽町はようやく自分が意識を失う前と同じ体の感覚を持っていることを確認し た。勢い良く飛び起きるなんて芸当は出来なかったが、横になったまま手のひらでぎゅっと握りこぶしを作ると、普段ど おりにできたのでゆっくりと体を起こす。ふかふかのベッドにふわふわの布団がかけられ、ベッドから離れた部屋の隅 にかがり火がある。そして、部屋は一目みてわかる異国情緒、イスラム文化だった。 遠くのほうから独特の音楽が流れてきている。有楽町はここがどこだかわからないながらも、ここでじっとしているのも 怖くて布団からゆっくりと這い出した。激しくのどが渇いていて水が飲みたい。ただ、それは砂漠の中を闇雲に歩いてい るときと違って、寝起きののどの渇きだった。 音のするほうへ近寄っていくと、長い廊下の向こうにいくつものランプに火が灯り幻想的な光景が広がっていた。 何人もの少女達が色鮮やかで独特な衣装を身にまとい、ふわふわとときにしっとりと踊っている。その横にはまた何人 もの少女達が楽器を抱え、体の中に響くような音楽を演奏している。 それはこの世のものとは思えぬ光景で、有楽町はその場に立ち尽くした。それに気付いたのは少女達の中に一人混 じった青年男性だった。 彼はすっと立ち上がるとすたすたと有楽町のほうに向かってくる。少女達は彼が移動しても特に気にするでもなく舞踏 と演奏を続ける。異国の音楽をBGMに歩いてくる青年が近づいてくるにつれ、有楽町は恐怖よりも興味で体を動かせ なくなった。 最初は良く見えなかった彼は、白くゆったりとしたズボンとシャツのようなものの上に鮮やかな青に金の刺繍がされた 上着を着ている。悠然と、しかし毅然と近寄る彼は真っ白い肌に金髪、それでいて有楽町と同じ東アジア系統の顔をし ていた。ただし、とびきり上に入る部類の。 「目が覚めたか、お客人。」 有楽町の目の前に立つと、青年は有楽町よりもいくらか背が高かった。すらりとして手足と体つきに、不躾とわかって いても目が離せなくなる。 「・・・あ・・・」 阿呆のように口を開いたまま、有楽町は何もいえなかった。そんな様子を一瞥してから、青年は手招きした。 「ちょうど、貴殿の回復を願って酒宴を開いていたところだ。参加されよ。」 美貌の青年に操られるかのように有楽町は彼の後をついて、少女達の集団に近づいていく。全く理解しきれない世界 に、有楽町の頭は崩壊していた。ただ、シルクロードを彷彿とさせるアラビア音楽と、胸部と腰回りだけを隠し、足を透 ける薄い幾重ものスカート状のものでおおった多くの女性達に視線を合わせられなくて宙を見ているだけだった。 「ここに座れ。体が辛いようなら横になるといい。」 彼の隣の絨毯をすすめられ、いわれるがまま有楽町は腰をおろすが、緊張からとりあえず正座をした。その姿を見て 美貌の青年は大きな声で笑う。 「なんだ真面目な奴だな!ぶっ倒れてやっと目覚めたばかりなのだからそう堅いことをするな、あぐらでもかけ。」 言われたとおりあぐらになり、そのとき有楽町は自分が旅行中着ていたジーパンではなく目の前の男と同じような白く ゆったりとした服に着替えていることにようやく気付いた。袖をじっと見ていると、美貌の男がそれに気付く。 「汚れていたし、窮屈そうだから着替えさせた。なんだ、不満か?」 「・・・え・・・!」 滅相もないです!といおうとして有楽町は自分が話せないことに驚愕した。美貌の男は驚くでもなんでもなく、グラスを 差し出す。 「水分不足だろ。焦らずゆっくりと飲め。」 受け取ったはいいものの、飲んでいいものなのか判断の付かない有楽町は逡巡する。その様子をみた男は淡々と 「ただの水だ。」といった。有楽町は意を決して舌先で少しなめると異様なほど甘く、美味しく感じてそのまま一気に飲 み干す。 「・・・うまい。」 「ようやくしゃべったと思ったら水の感想か。それ、普通の水だぞ。」 男はあきれたように有楽町を見る。男は金細工の施されたガラス製のグラスを持っていて、それに少し口をつけた。 「すみません、ありがとうございます!」 「謝るのか感謝するのかどちらかにしろ。まぁ、今はなんだっていいさ。とりあえず、水を飲んで口に出来そうなものを 食べろ。」 目の前にはスープや果物が並んでいるのだが、どれもこれも有楽町には馴染みのない料理ばかりでこれといって食 欲がわかない。とりあえず、無難そうな果物を手に取りかじると、甘かった。これなら食べられるとゆっくり咀嚼する。 「飲んで食って、もう一回眠れ。もう一度目が覚めるころには体も元気になるだろうさ。」 水をがぶ飲みし、果物をいくつか食べると猛烈な眠気が有楽町を襲ってきた。ここで眠ってはいけないと思いながら も、有楽町はそのまま絨毯に倒れこむ。薬でも盛られたのかな?なんのメリットがあるのかわからないけれどと眠りに 落ちる限界間際にまぶたを根性で少し上げると、男は水タバコをふかしていた。その甘い匂いと、幻想的な音楽と、少 女達が踊る足音のかすかな振動を感じながら、有楽町は再び深い眠りに落ちていった。 それを横で見ていた男は少女にいいつけ、かけるものを持ってこさせる。外の風がよく通るそこはそのまま眠ったら 夜風で病になってしまうが、昼間は日陰になって心地よく眠れる。有楽町の横にもう一枚大きな絨毯を引いた男はそこ に横になり、少女達に宴を続けるように指示した。控えめに続けられる演奏はまるで子守唄のようだった。 次の日、夕暮れ時に目を覚ました男は大きなあくびをしてから立ち上がり、顔を洗うために水場に行く。それに少女 がとことこと付いていき、顔を拭くための布を差し出した。男は絢爛豪華な金糸の刺繍が施された藍色の上着に着替 え、たっぷりと布を使った羽付き飾り帽子をかぶり、もう一度先ほどまで寝ていた場所に戻った。 「・・・・・・」 無表情に見下ろしてくる視線に全く気付かず有楽町はすやすやと眠っている。 「起こせ。」 男がいうと、少女は有楽町の体をがくがくと揺さぶった。 「・・・もうちょっと・・・。」 有楽町がかけてあった布にくるまり抵抗を見せるので、男は勢い良く布をはいだ。 「いつまで寝ている!」 聞きなれない声に覚醒した有楽町は勢い良く体を起こし正座する。そこには、砂漠に倒れていた人間に浮かぶ死相 はなく、男は心の中で密かに安堵した。 「よし、生きているな。生きているなら食事だ。」 そういって歩き出す男に、有楽町は良くわからないながらも急いで付いていく。まるで雛が親鳥について行くように。 二人は一定の距離を保ちつつ、石造りの長い廊下を歩く。一人の少女が有楽町のすぐそばをあるくが、彼女の顔は 薄く黒い布に覆われ見えない。 (たしか、規律の厳しいところでも目は出すよなぁ・・・。) まるで黒子みたいだなぁ、なんて思いつつ、有楽町は黙々と歩く。そのうち、一つの部屋に通された。 絨毯の敷き詰められたそこには昨夜同様多くの食事が並んでいるが、今日は昨日よりも食欲を誘うにおいがする。 「おいしそう・・・。」 有楽町がごくりとつばを飲むのをみて、男は笑う。 「好きなだけ食べろ。食べながら、話をしようじゃないか。」 そういえば、まだ名前すら知らない恩人に、名乗ってすらいなかったのだと有楽町はようやく気付く。 「すいません!助けてもらったのに食っちゃ寝ばっかりで!」 土下座しそうな勢いで深々と頭を下げると、男は不遜な態度で絨毯にどかりと座り「まずは自己紹介からだな。」とグ ラスを差し出した。今度は酒のにおいがした。 ワインのような発酵酒で乾杯したあと、わらわらと昨夜の少女達が現れて皿に料理を取り分けたりと給仕をする中二 人はようやくまともな会話を始めた。 「このたびは助けて頂いてありがとうございました。俺は日本からきた有楽町と申します。」 そこまでいって、有楽町は初めて目が覚めてから今までずっと母国語で話していたことに驚愕する。 「えぇえぇ!?」 イスラム風の衣装を身にまとい、絢爛豪華に金細工で飾り立てた男は今日も水タバコをふかしているがその様は堂 に入っている。そして、類稀なほど絵になる光景だ。 「私が日本語を話すのがおかしいか?私も日本人だ。西武池袋という。長い名前だから好きなように呼ぶといい。」 呆然とする有楽町のグラスに酒を注ぎ足し、西武池袋は朗らかにいう。 「同じ日本人だから助けた、というわけではないんだがな。遠く離れた異国で同胞に会うとは嬉しいものよ。」 西武池袋は有楽町にすすめた分だけ自分もあおる。有楽町は慌てて西武池袋のグラスに酒を注いだ。 「貴様は何のため異国にきたのか?」 「仕事です。」 「やはり、貿易か。」 納得して一人頷く西武池袋に、有楽町は単刀直入に問う。 「西武池袋さんはこちらで何をされているんですか?」 顔の半分が隠れている西武池袋の機嫌は見えにくく、有楽町は聞いてからストレートすぎたなぁと後悔した。もしも今 宮殿から追い出されたら有楽町は間違いなく死ぬだろう、そういう環境化で話しているということを、同じ日本人である というだけで忘れてしまっていた。 「墓守だ。」 一言で端的にまとめられた答えは有楽町が理解できるものではなく、つい阿呆のように間抜けな顔をしていると、西 武池袋はけたけたと笑った。不機嫌ではないことに有楽町は心底安堵した。 「ここには私の敬愛するお方が眠っている。あの方が亡くなった時、ここには私を含め数人の同胞がいた。だが、一 人二人と離れていき・・・今ここを守るのは私一人になってしまった。けれど、私は彼らが帰ってくるのをここで待ってい る。誰かが待っていなければわからなくなってしまうから。」 褐色の肌をした少女達が今日も踊っている。こんなに沢山の人がいるのに西武池袋は一人だという。 「ハーレムじゃないんですか?」 有楽町の質問に、西武池袋は大真面目に答える。 「この子達はあの方のハーレムだ。私は墓守であり、ハーレムの管理人をしている。」 西武池袋は鳩の丸焼きを少女に切り分けるようにいってから、再び有楽町のほうをむいた。 「貴様の聞きたいことの大体はわかるから説明してやろう。 ここは宮殿を中心とした小さなオアシスで、私たちが食べる分の野菜は確保できるし、家畜もいる。砂漠には小動物が いるから狩りに行くこともある。交易は・・・今は滅多にないな。ここも以前はキャラバンが来たのだが、あの方を知る者 がいなくなった今では滅多にこない。」 「服とかはどうされているんですか?」 有楽町が新しく渡された服は、最初に着せられたものよりも華やかなものだった。白い服に金の刺繍がふんだんに施 され、綺麗な石とガラスが縫い付けられている。洗濯がしにくそうだなぁ、なんて庶民の有楽町は思ってしまう。 「羊がいるからな。絨毯などは編むし、刺繍もあの子たちがしているよ。糸も布も、ここにははいて捨てるほどある。貴 様も好きな意匠があったら頼むといい。しかし、貴様が最初に来ていたような服はなんなのだ、貴様は奴隷階級なの か?」 シルクに金糸の刺繍の服を着る人からみたらそうだろうなぁ、と有楽町は自分が着ていた服を思い出して苦笑する。 そして、何の抵抗もなく豪華な服になじんでいることにも苦笑した。 「世界中、今はああいう格好が多いですよ。」 西武池袋はふんふんと聞きながらため息をつく。 「・・・今の世は、私が知る世界と異なるようだな。少し前に助けた異国の商人は、全世界が戦争をして、空飛ぶ機械 が戦う道具になったといっていた。私の知らないことばかりだ。」 憂えた横顔は美貌に陰が添えられて余計美しく、有楽町はふいに見とれてしまった。 「あ、すみません。携帯電話の充電器をお持ちですか?電池切れで使えなくなってしまって・・・。」 「けいたいでんわ?」 西武池袋が聞き返してきた意味がわからず、有楽町が首を傾げる。ああ、こちらはまだ普及し始めたばかりだからか な?と思い、「あ、電話をお借りしてもいいですか?一度会社に連絡を取りたいので。」といいなおすと、西武池袋は余 計不思議そうな顔をする。 「・・・ああ!そうだそうだ、前にきた奴がいっていたな。遠くと声を交わすことが出来るとかいう装置のことか。」 「そうです!」 有楽町はやっと伝わったことが嬉しくて、奇妙な説明も気にせず体を乗り出した。 「そんなもん、ない。」 「え?」 「・・・いっただろう、ここは墓場だと。」 西武池袋の寂しげな顔に、有楽町は何もいえなくなってしまう。 「無事を知らせたいのならば自分で近くの町までいかねばならん。疲弊しきったいまの貴様では無理だろうから、まず はゆっくりと休め。どのみち今は砂嵐が酷くて出られないから、出られる時期がきたら誰かに案内させよう。おい、彼に 酒をたしてやれ。」 顔の全くみえない少女が有楽町のグラスに酒を注ごうとするので、有楽町は慌てて飲んでグラスに空きを作った。とく とくと注がれる酒は度数が高く、日本人らしく、多くは飲めない有楽町の世界はくらくらと回りだす。 その様子を察した西武池袋は苦笑いしながら少女を一人手招きした。 「おい、お茶を用意してやれ。」 はい、と鈴を転がすような声がし、すぐに温かい甘いお茶が渡された。 「・・・西武池袋さんは、お酒強いんですね。」 「こちらにきて長いからな、かなり鍛えられた。」 顔色を変えずのみ続ける西武池袋の横には二人の少女が侍って酒を注ぎ、料理を取り分ける。少女達は先ほどか ら何一つ口にしないが、そういうものなのかと有楽町は思ってそれについてはきかない。 「ここにいる間、敷地内は好きに使うといい。何かあったら彼女達にアラビア語でいってくれ。」 「あ・・・俺、アラビア語話せないです。英語しか・・・。」 「そうなのか?ならば、西武池袋と彼女らにいえばいい。私がいくから。」 「いえ!そんな申し訳ないです!」 「言葉も話せないのだから致し方あるまい、しかし貴様アラビア語も話せないのによくこちらのほうへ来たな。馬鹿な のか?」 嫌味のとげを多分に含んだ言葉に有楽町は小さくなる。言われていることはもっともなのだが、なんだかいたたまれ ない。会話をしているのが二人だけなのに、そんなこと言わなくたっていいじゃないかぁ、と心の中で恨み言をいったり もする。 「・・・私も酒が回ってきたようだ。今日はここらでお開きとしよう。」 西武池袋が立ち上がったので有楽町も立ち上がろうとするが、しゅっと手で制された。 「もう少し食べるといい。食べ終わったらそこの者に話しかけろ、貴様の部屋まで案内する。」 そういうと、西武池袋は服を風に膨らませながら少女二人を引き連れて暗闇の向こうに消えていった。金髪がきらき らと焚き火の光を反射するのに、有楽町はまたみとれてしまった。 次の日、日中に目を覚ました有楽町は宮殿を探検してみることにした。とはいっても、女性の部屋に万が一入ってし まったりしたら固まってしまう小心者らしく、廊下を伝って歩いていくだけの計画だ。 まずはたっぷりと水を飲んでから、置いてあった服に着替える。西武池袋は昨夜いろいろな説明をしてくれて、部屋の 中では自由にくつろげるようになった。かごの中には毎日有楽町の着替えが用意してあって、軽食と水はいつでも飲め るように準備されていた。軽く食事を口にしてから、有楽町は気合を入れて部屋のドアを開ける。 日差しはまぶしく石畳の照り返しさえ厳しいが、湿度のない空気はじっとりとした日本よりもすごしやすいような気がし た。日陰を歩きさえすればそんなに辛くはない。 回廊には石から削りだした彫刻がいくつも飾られ、窓が開け放たれた大広間をのぞくと、色とりどりのタイルでさまざ まな花が描かれていた。 戻る道を忘れないように、あまり気ままに動くことは出来ないが、中庭に咲く極彩色の熱帯の真っ赤な花や、つるりと した葉の植物など、見るものに困らなくて有楽町はゆったりと散歩を兼ねた探検を楽しむ。 連絡を取れないことは気にかかっていたが、この楽園のようなオアシスにいると今までいた世界のことがどうでもいい と思えるようなときもあった。それではいけないと思いつつ、連夜の幻想的な音楽と舞踏と美貌の男に全てを奪われて いくようだ。 ぐるぐると回廊を行くうちに、有楽町は自分が自分の部屋がどこにあるのかわからなくなってしまった。誰かに道を聞 こうにも、あれほどたくさんいた女性の姿は一人もみかけない、眠っている部屋に間違えて踏み入ってしまったことも結 局なかった。 「どうしよう・・・。」 一つの建物なのだから、歩いていればどうにかなるだろうと腹をくくってずんずん歩いていく。つい一週間前、サラリー マンをしていた頃ならば絶対しないであろう冒険を有楽町は今繰り返している。小さな選択の違いが自分の人生を大き く変えていきそうで、薄ら寒いものすら感じた。 「西武池袋さーん・・・」 控えめな声で西武池袋を呼ぶが、反響すらせず宮殿は有楽町の声を吸い込んでいく。どうししょうかなぁ、と有楽町は その場にへたりこんだ。風が吹くと有楽町の金髪をふんわり巻き上げていく、同じ金髪だけれど、西武池袋の方がつや やかで綺麗だったなぁと思う。 有楽町はヒマさえあれば西武池袋のことを思い出していた。 電話も出来ず連絡を取ることができないのに焦らずのんびりしているのは、西武池袋の存在が大きい。有楽町は西 武池袋が男とわかっていても恋に近い感情を抱かずにはいられなかった。あまたの女性に囲まれ絢爛豪華な衣装をま とい、幻想的な豪奢な宮殿の中でゆったりと振舞う絶世の美貌の男は、有楽町の知っていた今までの世界にいない。 西武池袋の存在自体、まるで御伽噺のようだった。 「おい、有楽町。呼んだか?」 ぼんやりと思いにふける有楽町にいきなり声をかけてきた西武池袋に、有楽町はこれ以上ないほど驚いて、声になら ない悲鳴を上げた。 「〜〜!!呼んだから来たんだぞ!ここは私の部屋の近くなんだ。貴様の部屋から結構ある。」 「そうなんですか・・・、いや、俺自分の部屋に戻れなくなっちゃって・・・だれも見かけないし・・・ほんと困り果ててたんで すよ・・・。」 「あれらは日中いないからな。昼間は私と貴様の二人しかおらん。」 あっけらかんとした西武池袋の口調と裏腹に有楽町の背筋にぞっとするものが走った。 墓守だという西武池袋、死者のハーレムだという顔を隠した女性達、日中は人のいない宮殿。 「ここは・・・なんなんですか?」 立ったまま有楽町を見下ろす西武池袋は昼間も輝くように美しく、夜のような隠微さを持っている。今日は寝巻きのよ うな白い無地の薄い服をきているが、それが余計に閨を想像させた。 「いっただろう、墓場だと。まぁ、ここにいるのもなんだから私の部屋へおいで。」 招かれるがままに、有楽町は西武池袋についていった。西武池袋の服からは甘いような不思議ないいにおいがし て、何も考えたくなくなっていく。 「お茶を持ってくるから適当に座って待っているといい。」 西武池袋がどこかへ行ってしまったので、有楽町は仕方なく大きな絨毯の片隅に座った。先ほど西武池袋からした甘 い匂いがしてくらくらする。西武池袋はすぐに砂糖のたくさん入った甘い紅茶を持って戻ってきた。 「昼間動けるのは私と、客人の貴様だけだ。今まで昼間は寝るばかりだったが、貴様がいると退屈がまぎれていい。」 熱い紅茶をのみながら、西武池袋は絨毯の上にくつろぐ。帽子をぬぎ、くつろいだ格好をした西武池袋はそのまま絨毯 の上にごろんところがった。 「貴様の声が聞こえたから起きてやったけどな、普段は寝てるから眠いんだよ。」 こぼさないよう紅茶をはしにやり、西武池袋は大きなあくびをし、顔を有楽町のほうへ向けた。 「なぁなぁ、有楽町。貴様、恋人はいるのか?」 「へ?」 西武池袋はにまにまと笑う。女子高生が恋の話に明け暮れるように、西武池袋も生の話に飢えていた。 「・・・日本に、残してきた彼女がいます。」 「結婚の約束をして?」 「そうです。」 水タバコをひっぱった西武池袋はパイプをくわえ深く吸った。 「よくある話だな。」 そういってしまえば身も蓋もないのだが、西武池袋は楽しそうに有楽町を見ている。 「貴様は彼女に操を立てていそうだなぁ。」 「結婚の約束をしていますから、浮気はしませんよ。」 「吸う?」 「いえ、タバコは吸わないので。」 有楽町が首と手を振って固辞すると、西武池袋は特に気にせず、そう、と答えた。 「貴様の彼女はどうなのだ?」 「・・・どういう意味ですか。」 「どうもこうも、貴様が思っている以上に女はしたたかで強いからな。そして人の時間は儚い。」 「何が言いたいんですか。」 「なんにも。そうだ、昼間は寝たほうがいいぞ、夜になったらまたあいつらが騒ぐから。」 西武池袋はうつらうつらと船をこぎ始めて、有楽町は自分のために起きたというのは本当だったのだと察する。けれ ど眠気はなくて、西武池袋の寝顔を眺めていた。 髪の毛は金色なのに、まつげは黒くて長い。唇は男にしては珍しいほど真っ赤だった。 (実は、男装した女の人とか・・・?) 有楽町は西武池袋に腹を立てたことも忘れて美貌に見とれる。そのとき、西武池袋が目をあけた。 「うわぁ!」 「穴が開きそうなほど人を凝視しておいてなんだその声は。貴様、ちょっとこっちこい。」 絨毯の奥にある足の低いベッドに向かう西武池袋に呼び寄せられ、有楽町は危機感もなくついていく。 「寝るぞ。」 西武池袋がベッドに倒れこむ瞬間、有楽町は腕を掴まれてそのまま引き倒された。 ぎゅっと抱きしめられると、甘くていい匂いはして華奢ではあったが、女性特有の柔らかい胸がなくひきしまった男性 の体だった。 「夜まで寝る。」 それだけいうと西武池袋は有楽町を無視してすぐに寝息を立て始めた。有楽町はどぎまぎしてしまって眠るなんて出 来そうになかったのだけれど、西武池袋の際立った顔立ちを鑑賞しつつ甘い匂いをかいでいると、いつの間にか眠気 にひきずりこまれていった。 目が覚めると、隣の西武池袋は寝巻きのような服を脱いで絢爛豪華な衣装を身につけ重たげな布製の帽子を被って いた。 「起きたか有楽町。食事だ。」 「・・・え・・・今何時・・・」 「7時だ。」 「7時・・・」 もう一度寝ようとした有楽町の髪をくいくいとひっぱり、西武池袋は上機嫌に有楽町を構う。 「起きよ。」 「・・・んー・・・」 「有楽町。」 顔をくいと動かされても有楽町は面倒くさくてそのまま受身になっていたが、唇に柔らかいものが触れて、ぼんやりし た頭でうっすら目をあけてるとすぐそばに西武池袋の顔があったから、ああキスされたんだな、とわかった。 「・・・え、ええぇっ!?」 「うるさいなぁ。」 有楽町の上に西武池袋は跨っていて、有楽町はその美貌とされたばかりのキスを反芻して、下半身に血が熱かる野 を感じた。 「っどいてください!」 有楽町は力をこめて西武池袋を押すが、寝起きで力が入らない上に西武池袋は意外としっかりとした力で有楽町の 腕を払った。 「嫌だね。私はここで好きなようにしていいんだ。」 有楽町の首筋に何度かキスする西武池袋の気まぐれに、有楽町は体中が沸騰してなんだかよくわからなくなってしま う。 「・・・人に触れるのは、久しぶりだ。」 俺、このまま犯されちゃうかも?と思いつつ有楽町は全力で逃げることができなかった。命の恩人である美貌の男の 顔にほれ込んでしまっているのである。 一度離れた唇がもう一度触れると、西武池袋の舌が有楽町の唇を舐め、ゆっくりと口内に入った。有楽町の舌を絡 めとり舐める西武池袋の舌は熱くてぬるぬるしていて、有楽町は体中の力が抜けて西武池袋の服の袖を掴むこともま まならぬほど骨抜きにされてしまう。 何度も息継ぎをして激しいキスをくり返した後西武池袋はようやく唇を離した。 「食事に行こうか。」 「・・・ここまでしておいてですか。」 有楽町の素直な欲望を西武池袋は鼻で笑う。 「彼女に操を立てているのだろう?ならば、私からしていいのはここまでよ。」 着衣の裾を翻しさっさといってしまった西武池袋の言葉を何度も反復しながら有楽町は考えた。 (つまり、俺から行けばOKってことかなぁ。) 「あ゛――― 」 声にならないうめき声を漏らして、有楽町は己の願望を必死に押さえ込もうとする。 そのとき、あれほど愛した女性の顔を思い出すことが出来なかった。手の作りも髪型も、空港での見送りのときにき ていたワンピースのデザインさえ覚えているのに。 「あっ・・・あ・・・やっ・・」 酒でほてった西武池袋の体は熱く、有楽町が性感帯を舐めるたびに小さな声を漏らして体をねじらせる。 「気持ちいい?」 後孔を指で慎重にほぐしながら聞くと、西武池袋は真っ赤な顔で一瞬睨んだがすぐに別のほうを向いてしまった。可 愛いなぁと思いながら有楽町は愛撫を続ける。 「やだっ・・・ゆうらくちょう!・・いっ・・」 「あ、ごめんね?すごくきついから。ちょっとだけ我慢して。」 傷つけないようにゆっくりと腰をすすめて全部中に入れきった状態で早急に動かさず、有楽町は唇を噛み締めて痛み に耐える西武池袋に深く深くキスをした。それだけでもイってしまいそうになりながら、真っ白い肌をまさぐっていく。さわ り心地のいい肌は、ただ触るだけで飽きなかった。女性のような柔らかさやふくらみがあるわけでもないのに、初めて 抱く男の体は、今まで抱いたどんな女性よりも有楽町の体をぴったりと締め付けていた。 はちきれんばかりに膨張した西武池袋の性器を片手でやわらかくしごくと、西武池袋の体はびくんと跳ねてさらにぎゅ っと強くシーツを握った。 「もう動いてもいい?」 先ほどまで強く噛んでいた唇をだらしなく半開きにし、浅い息と小さな嬌声をもらす西武池袋は小さく、恥ずかしそうに 一度だけ頷く。今までの威圧的で横柄な態度が嘘のように有楽町にすがりついてぎゅっと抱きついた。 あの綺麗な男がこんなに可愛くなることに有楽町はこれ異常ないほど興奮していて、先走る興奮を必死に抑えながら ゆっくりと腰を動かし始める。 「やあっ・・ああぁ!あ、あっ・・はあっ・・・」 最初はゆっくりと、慣れてきたら次第に激しく出し入れを繰り返せば、西武池袋はしっかりと有楽町にしがみ付いて淫 らに腰をすりつけた。何度も激しく唇を合わせて舌を絡めあい、一滴も快楽を逃さないように淫らに、獣のように、夢中 になって貪りあう。 絶頂に達しようとさらに動きを早めたとき、有楽町の視界から現実味がうせていった。西武池袋はモノクロになり、全 てが平坦になっていく。そしてぐらりと世界が回転すれば、意識は明瞭でなくとも今までの痴態は全て夢だったのだとわ かる。 「・・・はぁ・・・。」 ため息をついて、でも続きを見ようと布団を被って無理なくまぶたを閉じる。 頑張れ俺の脳!と励ましたが有楽町が望むような続きは浮かばず、諦めて服の中に手を伸ばしたとき、くぐもった笑 い声が聞こえた。 「・・!?」 布団をはねのけて起き上がると、部屋の入り口には寝巻きの西武池袋が壁にもたれかかって笑いを抑えていた。 「・・・あっ・・・そのっ」」 有楽町の咽喉から空気がもれるが、言葉にならない言い訳をうまくまとめることができない。そんな有楽町を西武池 袋は至極楽しそうに眺めていた。 「貴様、何度もうわごとのように私の名前を呼んでいたぞ。」 しゅ、と衣ずれの音をさせながら西武池袋はゆったりと有楽町に近づく。猫がネズミに近づくように静かに、堂々と自 信たっぷりに。 ベッドをきしませて乗った西武池袋が有楽町の頬に両手を添えると、そこから痺れるような感覚が有楽町の全身に広 がった。 「私が欲しいのなら、素直にいえばいいのに。」 触れた唇の冷たさが、皮膚に残って離れない。 横にいた西武池袋を押し倒せばまんざらでもない顔をして有楽町に抱きついた。脱がし方のわからない服を乱暴に はぎとりながら、息を荒げる有楽町を西武池袋は巧みに動かした。 挿入した体内の熱さも、密着させた肌の冷たさも、なめらかな腰の動きも抱きしめる腕の力も、全てが夢のようだっ た。ただ、いくら世界がぐらついても目の前の西武池袋は消えることなく有楽町にすがっている。最初こそ有楽町に襲 わせた西武池袋はその後ずっとリードしていて、有楽町は初めての受身のセックスに酔いしれていた。 体を開いて以来、西武池袋は有楽町に対して態度を軟化させ、有楽町も西武池袋に砕けて話すようになった。この 世界に馴染んだ有楽町は昼眠り、夜動き、食事の支度や着物作りの手伝いをすることになんの違和感も持たなくなっ ていった。 毎日少しずつ新しいことを覚え、少しずつこの生活に馴染んでいくことに有楽町は喜びを感じている。一つ覚えれば 西武池袋は褒め、二つ覚えれば西武池袋は喜んだ。有楽町もそれが嬉しくて、馴染むことに抵抗しない。もともとの生 活を次第に心の奥深くにしまっていった。 ある日、西武池袋たちはなにやら支度をしていた。食事と聞いてきたのだが、今までと違う様子に立ち尽くす。 「いた!遅いぞ有楽町!」 「え?あ、ごめんね。」 少女達が幾人も有楽町のまわりを取り囲み、楽しそうに笑う。 「毎晩読経を行うのだが、貴様も来い。」 「え?読経?」 「貴様もあの方の世話になっているのだ、挨拶をするのは当然だろう!」 西武池袋が目を輝かせて言うので、断る理由のない有楽町は「じゃあ、行こうかな。」と承諾した。近くに少女がわら わらと寄ってきて有楽町に黒地に刺繍をしたマントのようなものを着せた。 ゆったりとした黒衣に身をつつみ、金の飾りをふんだんにまとった西武池袋と、同じような色合いの露出の多い少女 達に連れられて宮殿の奥へ奥へと有楽町は連れて行かれる。西武池袋の部屋よりももっとずっと奥に、ひときわ大き な部屋があり、少女二人が先頭に立ってドアを開けた。 「ここがあの方の霊廟だ。心静かに、お祈り申し上げるがいい。」 しずしずと進む西武池袋と少女達の座席は決まっているらしく、みなスムーズに持ち場に着くが、有楽町は場所がな いので隅のほうに座った。 楽器の演奏が始まり、少女達が小さな声で歌い始めると和音を多用した声楽は独特のうねりを持って室内に響き渡 り、それにあわせて西武池袋が低い声で読経を始めた。 言葉の意味はわからないのだけれど、鼓膜と心を打つ振動に有楽町はしゃんと背筋を伸ばし、中央にある棺のよう なものを見る。読経の声は次第に大きく盛り上がり、まるで歌のようなリズムで鳴り響いた。 胸をぎゅっと掴まれて、自然にぽたぽたと涙が落ちる。皆有楽町に背を向けていてどうせ見えないからと、有楽町は 涙がこぼれるがままにしておいた。外から月の灯りが差し込み、明かりはなくても室内は十分に明るい。無音の砂漠に 響き渡る天上の音楽に、有楽町はただひたすら耳を傾けた。 長い読経が終わると西武池袋は静かに立ち上がり、有楽町を一瞥もせずまっすぐに出口を目指す。その頬に涙で濡 れた後を見つけて、有楽町はなんとなく納得した。西武池袋は本当に、ここにいる人を愛しているのだ。死んでから長 い年月がたっても、まだ涙を流すほどに。その気持ちは痛いほどあふれ出していて、有楽町まで揺さぶり涙を流させ る。 少女達もそれぞれの荷物を抱えて部屋を出て、最後の一人が有楽町の袖を引っ張った。そのときには有楽町は涙を 拭き終わっており、彼女について部屋の外へ出て行く。外では西武池袋が涙の跡もなく、いつものように悠々とたって いた。 「あのお方にきちんとお祈り申し上げたか?あそこに入る自体、貴重なことなんだからな!」 「うん、ちゃんとご冥福をお祈りしてきたよ。」 有楽町は西武池袋に見とれていたのに、『あの方』を愛する西武池袋のために嘘をついた。 「ね、西武池袋。ずっと気になってたんだけど、あそこにいる方は、どんな人だったの?」 有楽町はしんみりとした空気に流されて、静かに語る西武池袋を期待してそう質問してみたところ、西武池袋は目を きっちりと開いてらんらんと輝かせ、有楽町の肩をぎゅっと握った。 「そうか!ついに貴様もあの方の素晴らしさを理解したか!よろしい!ならば今晩は日が昇るまであの方の偉業につ いてとくと教えよう!おまえたち、資料を集めて来い!」 心なしか嬉しそうな少女達は異常なテンションの西武池袋の叫びに近い命令に従って、散るようにおのおの走り去っ ていった。 「ああ、業績をまとめた本を元に時間に沿って話したいのだが待ちきれん。あの方に初めてお会いしたのは私が20の 頃で、商売のために元にきていたときだ。中華が世界の全てだった私に、世界はもっと広いと教えてくださった。馬に乗 って草原を駆け、駱駝に乗って砂漠を渡り、金銀に彩られた大国へ行こうと。その手腕は素晴らしく、どんな大きな商談 もまとめられた。みな、あの方と共に仕事ができるだけでよろこんだものだ!」 西武池袋の熱い話に有楽町はついていけなかったのだが、あの方よりも西武池袋の過去を聞けるのが嬉しくて耳を 傾けた。相槌をうち、気になるときは質問をする。上機嫌な西武池袋は有楽町のどんな些細な質問にも詳細に答えた。 そこで有楽町は西武池袋の広大な知識に感嘆し、感嘆するまもなく「あの方」の話の続きを聞かされる。 中庭に絨毯を重ねて講義が始まる。満月の今晩は火がなくても明るく、不思議な授業に有楽町のテンションもあがっ ていく。 「あの方が亡くなられたあと、私たちはここを立て、残りの人生を墓守として過ごすことにした。けれど、望郷の念とは 強いものなのだな。新宿が去り、拝島が去り、国分寺が去り・・・秩父と西武有楽町は最後までここにいてくれたけれ ど、私より先にいってしまった。」 知らない人の名前が出てきたけれど、有楽町はまだ嫉妬できるほど西武池袋のことを知らないのでさらりと聞き流し た。 「西武池袋は帰りたいと思わないの?」 「私の故郷は戦で死に絶えたと聞いた。あの方にお会いできたから、そのことを恨むつもりはない。ただ、帰る故郷が ないということだ。」 有楽町は西武池袋の話をきちんと聞いているのだが、どうしても時折でてくる単語の時間軸が理解できない。元?戦 争?有楽町の歴史理解が正しければ数百年は昔の話になってしまう。 「西武池袋が日本にいた頃って、昭和・・・?」 目の前の、せいぜい二十代後半にしか見えない男の得体の知れなさにぞっとしながら、もしかしたら心の病でも患っ ているのだろうか、とかんぐる。 「かまくらの幕府が、のちに元と戦をしたと対馬の者から聞いたが・・・貴様はそれよりずっと後の生まれなのだろ う?」 「え、」 「私も構造を理解しておらん。ただ・・・いつのまにかここは外の時間の流れから切り離されてしまったのだ。あの子ら は、あの方に捧げられた女達で亡霊のはずなのだが、なぜだか元気に動き回っているし。」 目の前で演奏をし、舞踏を披露する少女達が亡霊だといきなり言われても有楽町は全く信じられず、西武池袋を疑っ た目で見る。 「信じられなくても構わん。いつまでも、あの方の墓を守り通したいという気持ちがなにかに通じたのだろう。私はた だ、ここで毎日読経をあげるだけの生活だから時間が異なろうがどうでもよいのだが、時折外の話を聞きたくなって迷 い込んできた旅人に様々な話を聞いてきた。けれど時間がどんどんずれていって、今では恐ろしくて知りたくもない。だ から、貴様も貴様の時代の説明はしなくていい。」 きっぱりとした西武池袋の声は、狂人のものとは思えなかった。ただ、寂しそうにまぶたを伏せ、強い酒をあおった。 それから、二人の幸せな生活はしばらく続いた。 西武池袋が集めた本を纏めた書庫は古書の宝庫で、アラビア語を読めない有楽町にかわって西武池袋が読んで翻 訳して聞かせた。そうやってのんびりと過ごした夜もあれば、弓矢を携え近場に狩に行くこともある。有楽町は当然なに もしとめられないのだが、西武池袋がしとめた動物を少女達がさばきお相伴に預かった。弓の使い方を習って汗をか けば水を浴び、水を浴びながら体を重ねたことも一度や二度ではない。 西武池袋は常に有楽町を誘っていた。西武池袋は有楽町にはっきりと伝えないが、ここに引きとめようと必死であっ た。同胞がいなくなったあと、西武池袋は平常と狂気の合間を漂って、ときおりどちらでもない世界を漂うこともあった が、有楽町がいればいつもで自我を保っていられた。何よりも、寂しくなかった。 「私の無聊を慰めてくれ。」 永遠の生活、永遠にあのお方の亡骸のそばにいられる幸福の生活。それは、仲間と支えあっていれば楽園でも、一 人きりになってしまえばいびつな牢獄と紙一重であった。 「一緒にいるよ。」 西武池袋に誑かされた有楽町の睦言を、西武池袋は疑わないようにしていた。有楽町があの方を知らなくてもいい、 それでも、一緒にあの方をお守りする生活を送ってくれれば崇拝できなくてもいいと、西武池袋はそこまで譲歩したの に。 西武池袋がむかしむかしずっとむかし、故郷から持ってきた古い地図があった。書庫の中で朽ち果てているだろうと 西武池袋がとっくの昔に存在を忘れていた一枚の紙切れを有楽町がみつけた。 「これ、日本語?古くてあんまりよくわからないけど、俺でもちょっとわかるよ。」 楽しそうに地図を広げる有楽町の姿に、西武池袋は不安を感じた。西武池袋の古い古い故郷の名前はもう塗りつぶ してしまった。なのに。 「ここ、俺が住んでたとこと同じ地名だ。長いこと変わらないんだね。あ、これはー・・・」 有楽町の指が追う地名を、西武池袋は忌々しく睨んだ。口にするのをためらういい振り、感情のぶれ。ろくなことにな らない。 「私もいったことがあるぞ、数度だが。」 西武池袋はなんてことないようにいった。有楽町がさらっと通過して全然別の話しを始めてくれるのを期待した。だけ ど。 「・・・ここ、彼女が住んでるとこだ。」 言い終わらぬうちに、西武池袋は有楽町の手元から古い地図をひったくり、ぐしゃぐしゃに丸めた。故郷から持ってき たもので残っているわずかなものを失っても、西武池袋は有楽町を失いたくなかった。 「・・・こんな古い地図、みても楽しくないだろう?それよりこちらはどうだ、西方より取り寄せた美しい絵本だ、遠国の 珍しい動物が書かれていて・・・」 「西武池袋。」 今度は有楽町が西武池袋の話しをさえぎった。 「・・・俺は、帰らなきゃいけなかったんだ。」 西武池袋は静かに首を横に振る。 「待ってる人がいるんだ!」 有楽町の叫びに、西武池袋は眉をしかめた。 「貴様、どれだけここにいたと思っている。それに、砂漠の中のここから生きて貴様の故郷に帰れるとは限らんのだ ぞ。ずっといればいいではないか!」 「それでも、帰りたいんだよ・・・。」 望郷の思いに駆り立てられた人間を止める術がないことを西武池袋は良く知っている。それは、自己の経験でもある し、御伽噺に語られる常でもある。 「・・・貴様は、それで悔いはないのだな。」 「ない。」 有楽町のきっぱりとした覚悟に西武池袋は不機嫌に眉をひそめつつ不機嫌に笑う。 「ならばすぐに駱駝と案内人を用意し、一番近くの町まで送ろう。」 それから西武池袋は近くに置いてあったカゴの中から無造作に一つの手のひらに乗るランタンを取り出した。繊細な 金細工が施され、小さな宝石が無数にちりばめられたそれは実用品とはとても言いがたい。 「辛くなったらこれに火を入れろ。いつでも迎えにいってやる。」 「・・・ありがとう、でも、お気持ちだけ貰っておくよ。」 「いいからもっていけ!絶対に入り用になる。あの方への忠誠心を賭けてもいいぞ。」 にやりとする西武池袋の目の端には涙が浮かんでいる。胸を締め付けられて、それを見ないふりをした有楽町の中 に苦いものが広がっていった。 「・・・じゃあ、一応貰っておく。」 サイズの割にずしりと思いそれは手のひらの中で存在感を主張した。 去り際、西武池袋は小さな声でのろうようにささやいた。 「忘れるな、貴様は死者のモノを抱いたんだ。」 背中をぞっとするものが走るが、西武池袋を嫌いになるはずもない。独占欲に似た呪縛を有楽町は甘んじて受け入 れ、その言葉を反芻する。 「私を抱いたことの意味がわかれば、これを使え。」 触れた西武池袋の指先の冷たさが、つくりもののようで有楽町はそれを忘れるように意識の端から追い払った。 砂漠を三日三晩駱駝で走り通し、ようやく見知ったギザのピラミッドに到着したときには有楽町の涙腺はゆるみっぱな しだった。三ヶ月も西武池袋の世話になってしまったけれど、帰ってきた。 「良く生きてたなぁ!」 カイロ支店に半蔵門はおらず、かわりに先輩の東西が来ていた。聞けば、半蔵門は日本に帰ったのだという。懲罰人 事もあったといい、有楽町は自分がもっと早く帰ってきていればと激しく後悔した。 「でもお前、3年もどうやって生活してたんだ?」 東西の言葉に有楽町は固まる。 「3年・・・?三ヶ月じゃないのか・・・?」 「3年だよ!カレンダーでもインターネットでもなんでも確認してみろ!てっきり死んだもんだと思ってたんだからな!」 東西が指差したパソコンでインターネットを見ると、確かに有楽町が砂漠に行った日から3年がたっている。 (あそこは、12分の1の時間しか流れてなかったのか?) いつぞや、西武池袋が寂しそうに話していたことを思い出す。電波なだけだと思っていたのに、まさか本当だったの か? 「・・・とりあえず、彼女に電話するよ。」 パソコンの横にあった電話機の受話器を取り上げると、東西が必死の速さでとりあげた。 「ダメだ!」 叫んでから、東西はしまったという顔をする。人のいい先輩のあまりにわかり安すぎる態度に、元から察しのいい有楽 町は事情を察してしまった。 「3年たっているのが本当なら・・・彼女は、別の人と結婚したのか。」 東西は何も言わない。無言は何よりの肯定だった。 「そう・・だよね。砂漠で行方不明になった人間が3年後に帰ってくるなんて、誰も思わないもんなぁ。」 落ち込む有楽町に東西からかける言葉はない。 「そうだよな。俺だって彼女の立場ならそうするよ。」 きっと、彼女はいい人を見つけて結婚しただろう、彼女ほどの人なら幸せになっていて欲しいと有楽町は願う。 「とりあえず、お前両親に連絡しろよ。憔悴しきって目も当てられなかったんだから!」 有楽町の耳にもう東西の声は入ってこない。ああ、もうここは俺の世界でなくなってしまったのだと切実に痛感した。 「・・・俺は、どこにいったらいいんだろう。」 当然会社を解雇されていた有楽町は職もなく、東西の家に好意で居候させてもらいながら観光客向けのガイドなどの バイトをして食いつないでいる。そんな生活をするくらいなら日本に戻ってくればいいという両親も友人もいたけれど、有 楽町はもう日本に帰る気になれなかった。 ギザのピラミッドを日本人観光客に案内しているとき、砂煙の向こうにふいに白い宮殿が遠く見える気がするときがあ る。錯覚だろうと思うが、何度も何度も見かける。特に、心が弱っている夜ははっきりと見えたりもする。 きっと、西武池袋が自分を探しているのだろうと思った。目印の火をつければ、彼は今にも来てくれるのだろう。そん なはずはない、あれは夢だったんだと思いつつ、西武池袋の肌を思い出して眠れない夜にはぎゅっとランタンを握る。 自分があちらの世界に戻るのはそう遠くないだろう。有楽町の体の老化は東西と少しずつずれてきた。東西が人とし て当然の時間の流れを受けて加齢の影響を受けていくのに、有楽町はこちらへ帰ってきた頃から何もかわらない。年 がわかりにくい日本人、というイメージのおかげで有楽町は世界に紛れこんで生きていられるが、東西に気付かれるの は時間の問題だ。 そうなったら西武池袋のところへ行かなければいけないと、有楽町は今日も陽炎の中遠くにかすむ白い宮殿を見つめ ている。遠くに西武池袋の笑う低い声が聞こえたような気がしてあの体を思い出しながら、マッチに火をつける手を押さ えることにあきらめかけている。 (2010.11.11) c0cc0の「強く儚い者たち」とユーミソの「砂の惑星」を足して2で割ったつもり。 舞台の雰囲気はエジプトとトルコを足して2で割ったイメージです。 |