慣れとは難しいもので、名前が西武池袋となったとみな頭ではわかっているが、時折前の名前が口に出る。それは、 彼の神様が下さった名前ではないけれど、彼の父がつけた大切な名前であったのだ。だから、彼は古い名で呼ばれて も答えた。 特に東上はわざとか、というほど昔の名前で呼んだ。武蔵野の、同じような地域を同じ時期から走り始めた者として、 東上は神様を信仰する西武池袋よりもかつての武蔵野を愛していたような口振りだった。 「武蔵野!」 東上の声が騒がしい池袋駅構内でも拾えたことに、西武池袋は苦笑した。 「何かあったのか?」 「山手から話があるって。」 「山手が?何の話か知っているか?特に思い当たらんのだ。」 困って笑う、武蔵野時代のような彼を見て東上は胸が締め付けられた。もう今までのようには彼を呼べないのかとも。 それで、黙って抱き締めた。 「なんだ!?」 ここで突き飛ばさないのも、東上が最初に彼の古い名前を呼んだからだ、まだ池袋に山手と三人でいた時代を覚え ているから優しい。でも、今の彼はその時代を忘れようとしていて、というよりは全てを神様に捧げようとしていて、東上 にはただただ寂しい。「大事な用件だ。俺の口からは言えない…いけ、西武池袋。俺は持ち場に戻る!」 勝手に抱きついたかと思えば突き放す東上がよくわからず、西武池袋には悪態をつく暇もなかった。 西武池袋は山手の事務所へ素直に行き、用件をとうた。東上が言えぬといったそれは、山手の口から拍子抜けする ほどするりと報告された。 「今度、新線が開業する。」 外回りの鬱々とした、でも真剣な声に、西武池袋は彼の目をじっと見つめた。国鉄は買収やら開業やらを繰り返して 戦後も線路を拡大したし、それらは常に内回りの口を介して、茶化して報告されることだったから、あえて真剣な彼に何 かあるのかと思ったのだ。 「それで、なんだ。私とも関係があるのか?」 「ある。秋津駅近くに新秋津駅を作る。」 「なんだ、同じ駅を利用しないのか不便だな。」 お客様の利便性を考えれば当然のことだった。 「まぁ良い、貴様らは私らを嫌っておるし、その逆もまた然り。新線の名前は決まったのか?」 山手は一度口を開いて、でもいいよどんで、もう一度口を閉じてからぼそりと小さな声でいった。 「武蔵野線」 ぞわり、と全身の毛が逆立ったのを、本人は当然ながら山手も感じた。西武池袋の目が大きく見開かれる。 「武蔵野?」 山手は小さく頷く。 「武蔵野線だ。」 西武池袋は身の内に沸き上がる感情をどうすることもできずに、目を開いたまま固まっていた。彼の大切な土地(これ は東武にもいえるが、彼らは大して気にしなかった。少なくとも本線たちは)、彼の大切な名前。 「……」 ついには口すら開いて、それでも咎める目をして、泣きそうな目をして山手を見た。国鉄の代表として、こんな嫌な役 目を引き受けた山手はため息をついた。綺麗な顔をした男のそんな顔はそそられるようで、まるで子供のすがるような 目は山手の好むところではない。 「そうか…良い、名前だな。多分ろくな路線にならないぞ。」 ことほぐように、のろうように、西武池袋の声は震えていた。 「そのうち連れて開業の挨拶に行くから。」 「……いらない。」 西武池袋の目はもう限界に達していて、ぽたりと涙が落ちた。コートを濡らさずにアスファルトに落ちたそれを、山手 はじっと見た。泣き顔をまじまじと見ては失礼だと思ったのだ。 「会いたくもない。接続もなし、駅も離れるとなれば私には関係ないだろう!」 「西武池袋、わがまま言わないで。」 「いわずにいられるか!私の名前を……私達をなんだと思っている!貴様ら、新線に東武線とつけるか!?甲武線 とつけるか?!そんな新線、大嫌いだ!」 叫んでわめいて、西武池袋は逃げた。逃げる後ろ姿を追おうかと考え、考えている間に見失ったので諦めて高田馬 場にいる、西武のもう一角を頼ることにした。まだ新線に関する書類すら渡していなかったのだ。 高田馬場の西武休憩所のドアを叩くと、「手離せないから出て〜」と西武新宿の声がして、「はいはい」といいながら、 エプロンをつけた西武拝島線が出てきた。 「あれー山手じゃん。どうした?珍しいね〜」 前髪を上げて囲碁に興じていた(こういうところが年寄りくさい)西武新宿は、本を閉じると前髪を下ろし、山手線に椅 子を進めた。 「山手もココア飲む?いま作ってたところ。」 「あぁ。あ、だがそれでは…」 量が足りなくなるのでは、と辞退しようとした山手に拝島が笑った。 「新宿の分を減らすよ。こいつはいつも3杯分も作らせるんだ。」 全く…と鍋をかき混ぜる拝島は手早くマグカップ3個にココアを注いで、古くて傾いたテーブルに乗せた。その前に囲 碁セットはすっかり片付けられている。 「冷めないうち飲め!拝島のココアは上手い。」 山手は熱いココアをすするように飲んだ、確かに美味しい。 「茶菓子もどうぞ。」 クッキーもだされ、あーなんか下手するとすぐギスギスする国鉄より癒されるかも〜なんて思っている間に、西武新宿 は勝手に山手の資料を読んでいた。渡す予定だったものだから、困らないけれども…。 「……拝島。これは嫌な話だよ。ココアより酒が必要じゃないか?」 資料を受け取った拝島はみるみるうちに顔色を曇らせる。だが、西武池袋のように取り乱しはしなかった。 「……せいぜい倒産しないよう気を付けろ。」 「同じこという。」 「山手、もう池袋に話したのか?」 「話した。で、逃げた。」 わかりそうでわからない話の流れに新宿は頭を抱え、拝島に視線で助けを求める。 「いくら会長を敬っていてもね…彼は武蔵野鉄道の主線だったんだ。彼はそうやって生まれたのだし、本来そうやって 死んでいくはずだった。辛いだろうし悔しいだろうし。だから逃げたんだろう。」 ふうん、と西武新宿はココアを飲む。甲武鉄道の子会社時代を忘れたわけではなかろうが、2路線が合併して出来た 彼には、わかるようでわからない話なのかもしれない。山手が一人納得していると、二人はちゃっちゃかと片付けを始 め、山手の飲みかけのココアも有無を言わず片付けられてしまった。 「俺らは所沢に向かうからお前も出ろ。」 「…池袋?」 端的な言葉に、でも西武新宿はにかっと笑った。少年のような笑顔で。 「あったりまえだ!俺らは家族だからな!」 「なんで所沢かというと、多分少しでも会長との思い出のある場所にいこうとするはずだから。今頃逃げたことを猛烈 に反省してると思うから、許してね。」 部屋の鍵を閉めながら西武拝島が頭を下げた。笑っていない、冷たい目で。彼もまた武蔵野鉄道の一員だったのだ と意識した。 所沢の本社のトイレで「ここで会長とご一緒したことが…」なんて変態じみた思い出(会長が用を足しているときにたま たま遭遇しただけだが)にひたっている西武池袋をみつけたのは西武新宿だった。 「はいじまー!池袋みっけ!」 便器を見つめる西武池袋をトイレから引きずり出してソファに座らせると、いきなり頬をはたいた。 「!!」 突然のことに西武拝島が顔色を青くするなか、西武池袋は呆けた顔で西武新宿をみた。 「いたいのいたいの飛んでいけ〜」 ぱたぱたと手を揺らす西武新宿の動きは児戯のようであった。 「西武池袋、西武池袋。」 呪文のように呟く彼の言葉は、静かに西武池袋に染み渡る。他の誰でもない、『西武鉄道本線』の言葉だから。 新秋津駅から一応の挨拶にやってきた武蔵野線に、西武池袋は片目で目線をくれただけで立ち去った。そのタイミン グは武蔵野に気付かなかっただけとも、武蔵野を知らないからわからなかっただけともとれる絶妙なもので、名前を呼 びそこねた武蔵野は機嫌を害しながら事務所に戻った。彼の昔の名前をとったことなど、国鉄の一員である彼には些 細なことなのだ。 (4月1日) |