| 廊下が暗いのは天気が悪いからではなくて空気が重いからなのだろう。 重たい着物をきらびやかに重ね着した西武池袋は外から見られないように窓ガラスに目隠しをしてしまった。けれど、 障子のように柔らかく光を通す和紙は家の内側を陰鬱にするものではない。そもそも、公僕の山手が用意したこの家 で西武池袋が何をしようと特に何かを言われることはないのにそんなに気を使うなんて、と着物よりもずっと問題な髪 色をした西武池袋を八高は思うのだ。 「こんにちは。」 「のんきなものだな、省線。」 「それをいったら西武池袋もじゃない?こんなところで油を売って。」 「私が売っているのは油ではないぞ。」 怒るでもなく悲しむでもなく。西武池袋は答案の解答を訂正するようにいう。なんてことのないように。 「でも、お金をもらっていないじゃない?」 「はは、貴様は優しいな。」 手土産にと、自分の路線で咲いていた花を渡すと西武池袋は思いのほか喜んで、軽やかな足取りで花瓶を取りにい った。その間に八高は林檎の皮をむく。西武池袋も路線の奥まで行けば手に入るだろうけれど、皆が苦しむなか自分 から欲しいといえない生真面目な彼女のために持ってきた格別甘い林檎だ。 「花瓶もだいぶ割れてしまってなぁ。・・・りんご?」 「うん、冬の残りだけどおいしそうでしょ?頂き物なの。」 それがどこからの頂き物なのか、軍事路線から物をもらうというのがどういうことかわからぬ西武池袋ではないけれ ど、少し顔をしかめた後、指で林檎を一切れつかみ口に入れた。 「ぼけかけているが、蜜が多くて甘いな。」 「でしょ。西武池袋にも食べさせてあげたいと思って。」 「省線にしては気が利く。」 西武池袋は困った顔をして、それでもちょっとは嬉しいのか微笑んだ。彼女の気持ちはわかるしこんなご時勢にと思 う八高だけれど、彼女を少しだけ甘やかし、優しくしてあげたかった。 「今日の夜は誰か来る予定になっているの?」 「ああ・・・。いや、早く来た理由はそうではない。昨日徹夜してしまったから少し仮眠を取ろうと思ってきたんだ。」 「そうだったの!?ごめんね、邪魔しちゃった!」 「いい、いい。私達は一日二日寝なかったからといってどうということはないだろうが。」 「そうだけど、眠いんでしょ?」 「・・・少し、な。」 ゆったりと瞬きを繰り返す西武池袋のまぶたは重たげだ。真っ黒いまつげに囲まれた大きな黒目がときおり完全に 隠れたまま何秒か過ぎていく。 「お布団ひいてくるよ。」 「あ、八高っ・・・」 なにか言いたげだった西武池袋を置いて八高は西武池袋の寝室から一番日当たりのいい部屋に布団をうつして広 げた。西武池袋の布団は大きいから八高も十分一緒に眠れる。 「ついでにお布団干したらいいじゃない!」 「あのなぁ・・・」 西武池袋の手を引いて八高は布団にダイブする。厚手の布団を重ねた西武池袋の布団は柔らかくってふかふかして いた。八高が干さなくたって山手が雇った通いの家政婦が布団を干しているのはわかっているのだけれど、日陰に身 を置きたがる西武池袋のために少しでも日のあたる場所を用意したかった。 「でも、たまにはこういうのもいいなぁ。」 「でしょ。」 派手な着物を脱ぎ捨ててそこらへんにほうったまま、西武池袋は八高の腕の中にすっぽりとおさまる。西武池袋から ふんわりといいにおいがして八高は泣きそうになった。西武池袋の体は柔らかくて細くて力を入れたらぐにゃりと曲がっ てしまいそうで。 「一時間たったら起こすから、少しだけ眠ったら?」 柔らかく抱えて、その温度を十分にかみ締めてから西武池袋に声をかけたら、西武池袋から返事は無くて代わりに 静かな寝息が聞こえた。 「僕も一緒に寝ちゃいたいなぁ。」 日当たりのいい部屋の温度は心地いい温度で、春の日差しできらきら輝く西武池袋の綺麗な髪と顔はまるで本物の 女神様みたいだった。 大きなあくびをして目を覚ました西武池袋は無意識に八高に抱きついた。抱きしめ返しながら八高は西武池袋の首 筋に頭を埋める。キスをするでもなく、ただ肌を近づける。 「おはよう、西武池袋。」 「・・・ああ、八高。」 もうすぐ西武池袋のところに別の男がやってくる。この家の合鍵はいったい幾つあるのだろうと八高は考え、途中まで 数えて数えるのを諦めた。 「・・・西武池袋は、優しいよね。」 「なんなのだ貴様は、今日はおかしいぞ。」 「えー、僕はいつもこんな感じだよ?」 八高は怖ろしく整った顔を意図的に西武池袋に向けた。西武池袋がその顔立ちを嫌っていないことを知っていて、も う時間がない今手を握る。 「今日、誰も来ないならよかったのにね。」 誰も来なかったからといって八高と西武池袋の間には何もない。 「ねえ、西武池袋。」 「・・・なんだ。」 「西武池袋は僕の女神さまなんだ。」 白く、女性にしては筋ばった西武池袋の手を両手で柔らかく握り締めながら八高は切なく訴えた。 「今日は私にむかって優しいと連呼してみたり、おかしいぞ。」 「僕は西武池袋ほど優しくなれないもの。」 「お客様を乗せる私と軍事路線の貴様ではそもそもが違って当然だろう。」 「うん、西武池袋みたいに言い切れたらいいんだけどね。」 「・・・・・・」 二人で布団に包まったまま無言になる。温かい布団の中はぬるくて居心地がよくてついいついてしまうが、ここで無駄 な時間をすごせば後悔することを二人はよく知っている。 「・・・今夜はお前と一緒にいてやってもいいぞ。」 西武池袋の精一杯の誘いだった。西武池袋は八高を悪く思ってはいないが、それがどういう感情なのかはいまひとつ わからない。ただわかっているのは、会長に対する気持ちよりは浅いものであるということだけで。 八高は西武池袋の誘いが嬉しかったのだけれど、ゆっくりと布団から出た。それにあわせて西武池袋も布団から這 い出て先ほど脱ぎ捨てた着物を白い襦袢の上に羽織った。 「でも、西武池袋は僕だけのものにならないでしょ?」 西武池袋が怒ったり悲しんだりするのがわかっていて八高はいったのだけれど、それでも泣きそうな顔で眉を寄せる 西武池袋を見て心が痛んだ。 「・・・ごめんね、変なこといって。また来るから、じゃあね。」 多弁な八高にしては珍しくあせったように言い切って部屋を出た。そのまま走るように廊下を抜けて玄関で靴を履き 外に出て鍵をかける。一連の動作の間、息を吸うことすら忘れていたのだと気付いたとき、八高は埃っぽい空気を一気 に肺に入れた。 その一方で、一人残された西武池袋はつい今しがたの出来事を忘れるたかのように化粧を始めた。本当は八高のこ とをずっと考えていたかったのかもしれないけれど、西武池袋には今日大切な人がくる。その人のことも、八高と同じく らい嫌っていなかったりするものだから。 西武池袋に遭いづらくてあの家にはいけないけれど、たまには飯でも食うかと事情を知らぬ東上に誘われては断りに くくて八高は池袋にきた。 東上を探して、また西武池袋に遭わないように西口のほうを歩いていると急に背中から声をかけられて振り向いた。 ここで彼を知っている人は片手で数えられるほどしかいないし、よく知った人だったから。 「山手、久しぶりだね。」 「お前が最近池袋に来ないからだろう。いつぞやの小僧ともどもくればいい。」 小僧、といわれて越生のことだとわかるまでに一拍あった。八高のなかで彼は小さいながらも立派な大人なのだ。 「越生は満足したみたい。その節はありがとうね。」 「俺に礼を言うことではあるまい。」 山手はたまには本部にも顔を出すよういうと去っていった。軽く手を振って答えながら八高の目は山手の背を追って いた。あの男のいいところとわるいところを数えている自分に気付いてかぶりを振る。 「おい、八高!」 「わ、東上。久しぶりだね。これ、お土産。」 「さっすが省線、いいもんもってんなー。ま、立ち話もなんだしうちんとこ来いよ。」 誘われるがままに八高は東上の後を追っていく。池袋のごちゃごちゃとした構内には戦禍がありありと見えて八高は 苦手だった。西武池袋の家はあんなに静かだというのに。 東上の休憩室に行くと誰もおらず、東上が出した麦飯の多いお握りに八高が持参した焼き魚と野菜の煮物で昼食と なった。 話すことが尽きることは無くてとめどなく流れていく。その中でふと、東上は西武池袋の話を口に出した。 「お前は西武池袋をどう思ってんの。あ、俺はあいつ嫌い。」 そんなこといって、と八高はおもうけれどそういうと怒るから声にはしない。 「そうだね、女神さまみたいかな。」 「はぁ!?」 「あはは、ずいぶん昔本人にいったときもそんな感じだったよ。」 わけがわからないといった顔で東上がお味噌汁を飲むので、八高は話を続けた。 「山手が用意したあの家で西武池袋は誰も拒まない。それは、東上も良く知っているでしょう。」 「は、ただの淫売だろうが。」 「たしかに、一面はそうなのかもしれないけどね。でも、彼女だけは確実に受け入れてくれるということにたとえようもな く救われるんだ。」 八高の涼しい目元が細められたのを、東上は見惚れるようにみた。 「ま、それはわからねえでもないかな。」 おにぎりをほお張りながら同意する東上に八高は優しく微笑んだ。 「彼女のいいところをわかってくれる人がいるのは嬉しい。でも、そういう君のことも彼女は受け入れちゃうから、それ は悲しい。」 うつむく八高に、どうしようもない業を感じて東上は寒気を感じて背筋がぞくりと総毛だった。それは、東上でも一枚噛 めない類のものだった。 激しい空襲があって、西武池袋の路線はまた被害を受けた。体中が傷だらけになって包帯を巻くのすら体が辛いの で自路線を離れられず、いつもの家に行けない西武池袋のために八高は所沢へ見舞いにでかけた。 拝島が所沢で面倒を見ているらしいと聞いて所沢にある西武池袋の家を訪れたら、たまたま拝島はおらず、西武池 袋が一人で書類を整理していた。 「お邪魔してます。」 「息災そうだなあ、貴様は。」 書類の束を閉じた西武池袋がお茶を出そうと立ち上がったので八高はそれを制した。 「どうぞお構いなく。大怪我したってきいたから、様子を見にきたんだけど、思っていたよりも元気そうで良かったよ。」 「一応走っているからな。拝島の補助があれば一応歩ける。」 「うん、良かった。西武池袋が死ななくって本当に良かった。」 八高は常に努めてあっさりとした口調で話す。けれど、このときばかりは深く息を吐くように、強い語調でいった。そん な八高になれていない西武池袋は少し戸惑う。 「そんな簡単にわれわれは死なないだろう。」 慰めでもあり、単なる事実の確認でもあることをいって西武池袋が八高の手を握ると、大きな手のひらはぎゅっと西 武池袋の手を握り返した。 「うん、わかっていても心配したから。」 「省線様の貴様に心配してもらうような命ではないよ。」 「そんなこといわないで。本当に心配したんだから。」 繋いだ手はとても温かく、八高は両手で西武池袋の片手を包み込んだ。その手を見下ろしながら、西武池袋はどうし ようもない思いで独り言のようにつぶやく。 「・・・なあ八高。この戦争に勝って平和な時代がきたら、一緒になろうか。」 爆撃機の音が遠くに聞こえる。戦局など大本営の発表を待たずともわかる時局で西武池袋がついた優しい嘘ごと、 傷つけないように八高は優しく抱きしめた。 「約束だからね。」 八高は西武池袋の顔を見られなくて、首筋に顔をあてながらこぼれそうな涙を押さえるために眉を寄せて必死に耐え た。 西武池袋は優しく笑っていた。抱きしめられて傷が痛くても、されるがままに八高を受け入れていた。 (2009.11.29) |