リクエストNo.6
報われようのない恋心
初夏には珍しいほどうだるような、暑い夜だった。気温が高いからか、心臓が早く打つからかはわからなかったが、体
がとにかく熱かった。その夜のことが忘れられないけれど、同じ夜はもう二度とやってこない。
あの夜、苦しい春から立ち直れない西武池袋は泣いていた、泣いている彼女を見たくなくて抱いた。彼女を慰めるの
に、言葉では足りなかったから。
久しぶりに嫌な夢をみた東上は下着が汚れる直前に起きられたことを、どこかにいるであろう神に感謝した。
彼は自分の「男」の部分を越生にみられることにおびえていて、普段まるで母親か姉であるかのように接する。
料理を作り、掃除をし、ときには優しく叱る。越生はだまされていたが、それは東上の越生に対する優しさであって、
彼の生来の振る舞いではなかった。
(ああ、いまだにあのときを覚えているなんて。)
あのとき、彼は処女だったと聞いたのはあとになってから、別の男の口からだった。
そのときは体を繋げることに精一杯で、彼女が痛みに耐えていたのだとか、そんなことに気づけなかった。
東上にとっても西武池袋が童貞を捨てた相手であった。
だから、愛着もあるし執着もある。恋によく似た独占欲はとおきおり東上を苦しめた。
こういうときは酒盛りに限る、東上は八高に電話をかけた。ときおり夜不在にする東上に、越生は女の影を疑ってい
るようだったが、そんなものが東上の生活をいささかも狂わすことはないのだ。
東上の性は、あの暑い夜の西武池袋だけに向けられていて、それ以外にはほんのわずかも振り向くことはなかった。
西武池袋が新線と接続するたびに、東上は気を配ってその動向を探った。
例外として、西武秩父といった西武の新線は彼にとって「家族」なので、その対象から外されていた。
彼女は家族にたいしては既に充実しているようだった。食事を作り、掃除をし、おせっかいの過ぎる愛情をやく。そし
て各路線ともそれを拒絶しない、彼女は家族に恵まれていた。
その充実を知る東上から見ても、見ていて心穏やかになるものであった。それが、他社の新線となると彼女はだめに
なる。だめになるというか、自分を律せなくなるというのか、それとも忠実に目的を達成しているのか。
国鉄の武蔵野線が開業したとき、その名前に忌々しげに柳眉をひそめながらも接近したのは彼女のほうからだっ
た。
西武を嫌う国鉄に、国鉄を嫌う西武から近寄るために、腹の中でどんな折り合いをつけたのだろうか。それはついぞ
知りえなかったが、東上も東上で武蔵野に接近することで西武池袋の心のうちに少しでも近づこうとした。
自分の風貌が初対面の男に与える現象と幻想をよくよく承知している東上は、西武池袋より清楚に武蔵野の前に現
れた。「ライバル」の出現は西武池袋に火をつけると長い経験から知っていたから。
そして、西武池袋は焦って武蔵野に接近し、東上を憎む。東上はそれでもよかった。
ある日武蔵野が西武池袋に馴れ馴れしく接しているのを見て、もう武蔵野は終わったのだとわかった。もう西武池袋
は武蔵野に用はない、ならば武蔵野に友情をもって良かろうと、東上は清楚な表層を脱ぎ捨てて、素の、たたき上げの
自分を出す。
武蔵野は西武池袋の態度といい二重に失望し、もう獣の目で二人を追うことはなくなった。
西武池袋と武蔵野が何をしたか、そんなことは東上にはとうにわかっていた、というよりも手にとるようにわかった。
そして、何一つ口にしない武蔵野を好ましくも思った。西武池袋を好きといっても美しいといっても醜いといっても嫌い
といっても、東上は腹を立てる。そんな自分を嫌って、なお西武池袋を嫌えない東上は自分を嫌う。
営団に新線が開業した。それは東上にとって朗報ではなかった。
「有楽町」と名乗る新線は節度をもって東上に接し、そして素直に教えを請うた。
誠実な青年を心の底から嫌うこともできず、東上はときおり冷たく接しながらも、距離を縮めていったが、有楽町が西
武池袋の接続先である以上、監視の目は緩められなかった。
西武池袋の鋭利な美貌が微笑に歪むとき、そのあと西武池袋が相手との距離を一気に縮めるのだと知っていた。
あの冷たい美しい顔がほんのりと笑うとき、男はたまらない征服感に満たされる、東上もその顔をされたら抗えないだ
ろう、けれど、西武池袋が「既に終わった」東上に微笑みかけることはなかった。
「西武池袋に飲みに誘われた!」
楽しげに話す有楽町に、東上も当たり障りなく嫌そうな顔をした。
「あんなのと酒を飲んで何が楽しいんだ。」
それは嘘のようで嘘ではない。ああいう存在と酒を飲む時間などもったいない。一分一秒でも、彼女の肌に、彼女の
色香に溺れた方がどれだけ有意義なことだろうか。
「そんな言い方するなよ。・・・あーどうしよう!浮かれすぎてる!」
明日、彼がどんな顔をして出勤するかは容易に想像がついた。明後日(もしくは、そう遠くないうちに)、どんな顔をす
るかも容易に想像がついた。
明日、彼は幸せに、それこそ小躍りをしながら現れて、明後日にはどんよりとしていることだろう。
東上の予想通り、花を背中に飛ばしていた日の翌日、どんよりと、有楽町は東上のもとを訪れた。
「西武池袋の携帯が通じない・・・」
やっぱり、と思った。でも、教えてはやらない。
「いくら奴でも、仕事の付き合いのある相手にそんなことはしないだろう。会社用携帯は確認したか?」
「した。そうしたら出た。」
そうだろう。西武池袋は男が変わると私用携帯の番号を変える。西武各路線はいい迷惑だろうと思うが、そういった
西武池袋の拒絶するところが嫌いではない東上は、西武池袋の私用携帯の番号を聞いたことは一度もない。聞いた
ところで教えてくれるとも思わないし、知りたいとも思わない。知らなければ、番号が変わった事実を知らなくてすむから
だ。
「オレ、気に障ることなにかしたかなぁ・・・。」
西武池袋に好かれる条件を失ったからだよ、東上は高らかに叫びたくなった、のどの途中までひっかかった叫びは理
性で押し込んだ。
目が嗤っているのが有楽町に悟られないか、それだけが不安で顔をゆがめて笑顔のような顔をした。
「あいつなんか、いなくなってせいせいするだろう!」
「・・・いや・・・泣きそう・・・」
泣けばいい、と思った。早く泣いて忘れちまえ。泣かないで忘れられなくなって、同じような奴が現れるのは億劫だっ
た。西武池袋の動向を追い、誘われた男に嫉妬し、終わった男を嗤うのは自分だけでいい。それは、後輩に向ける優
しさであり、西武池袋への独占欲でもある。
「・・・東上〜・・・今日は飲もう・・・」
「あーいいぞ、酒ならいくらでも付き合うよ。」
有楽町はさして酒に強くない。東上ももともと強くはないが、だてに長く生きてだてに量を飲んでいるわけではない。有
楽町のような若造のストレスを十分に吐き出させて潰れさせるくらいの芸当ができないわけではない。明日には忘れる
ように、そもそも深い付き合いではなかったのだから忘れさせるのは簡単だろう。
たまにいく居酒屋で水の様に酒をのませた。顔を真っ赤にし、だいぶ正体を失おうとしていた有楽町がぽつりといっ
た。
「・・・なんか、おまえ西武池袋の尻拭いみたいだよな。」
意外な言葉に、東上は固まった。尻拭いとは、またあんまりな言葉だった。できれば西武池袋にこういうことをしてほ
しくないと思っているのに。
「気に障ったならごめん。俺はそんな度胸があるほうじゃないけど・・・たとえば、俺が西武池袋につきまとうとかさ。何
かあったら、きっと東上が片付けるんだろうなと思って。」
それくらいなら、たしかに東上はするだろう。ひきこもりの貧乏路線でも尽力を尽くすつもりではいたが、若造相手に
素直に教えている必要もないので適当な言葉をいう。
「さあな。」
「するよ、東上は。西武池袋のことが大好きだもんね・・・池袋も・・・」
池袋がどうしたのか、聞きたくて知りたくて仕方ない東上だが、聞くにはプライドが邪魔だった。何十年も西武池袋だ
け追っている東上にわからなくて、ぽっと出の有楽町にわかることなどなにがあろうか。
「そのうちあれも落ち着くさ。そうしたら俺の尻拭いもお終いだ。」
その相手が東上であることはないだろう。けれど、首都圏で、西武池袋と接続する新線開業さえなければ、西武池袋
の求めることは終了する。そうすれば、孤高の花となった西武池袋を眺めることは、東上にとって辛いことではない。廃
線になるまで振り向いてくれなくても、線路がある限り池袋で会って、同じ地域を走れる。
「我ながら、欲のないことだ。」
東上の呟きを、酒に飲まれた有楽町はもう聞いていなかった。
山手線から聞いた「新線開通」の情報は東上をいらいらとさせた。埼京線とかいう新線は池袋で接続があるだけでな
く、川越線との直通運転の関係で川越にもくるという。それはもう、西武池袋の対象になっているだろう。
動きの早い西武池袋を想像して、東上は憂鬱になった。若いころはよくわからなかったが、西武池袋の顔は年下に
好かれる。あのきつい言い方もしっかりしているととれるし、最初のころは西武池袋とて優しく接する。『きれいなお姉さ
ん』像のできあがりだ。
新線がそうとったのだろうと確信がもてたのは、埼京と初めて川越駅であったときだった。
「ねえねえ、東上って西武池袋ともう長いんだよね?」
なにが!?と聞き返したくなった、先輩に敬語も使えないのか!?と罵りたくなったが、国鉄には何もいえない。
「長いけど、なに?」
ここで、「俺に何聞いたって知らねえよ。」といってしまえればいいのに、東上にそれはできない。埼京が西武池袋の
何を知りたがっているのか、二人はどこまでいったのか切に知りたい。
「今日も池袋駅であったんだけどー、西武池袋ってちょーキレイだよね!でね、開業祝くれたの!お返ししなくちゃと思
って!」
埼京の手には、西武デパートの紙袋。タオル一本とかではなく全うなものをあげたんだなとわかる。
「西武池袋はどんなものをあげたら喜ぶと思う?」
うらやましい、と素直に思った。東上は西武池袋に何かもらったことはない。せいぜい、罵詈雑言が関の山だ。
「なんでもいいんじゃないか?誠意さえあれば、あいつは喜ぶだろうよ、ばかみたいに生真面目だからな。」
彼が欲しいものを埼京はもっている。たった一度きりしか使えないけれど、西武池袋が本当に心から微笑んでくれる
ものを。でも、教えてはやらない。
「うーん。何がいいかなぁ、お菓子とか、好きだと思う?」
「さあ。自分で聞いてみろ。」
「えー、東上のいじわるー、いいよ、山手に聞いてみる!じゃあね!」
ぱたぱたと過ぎ去っていく埼京は、背ばかりたかいのにまるで幼児のようだった。あれでは国鉄連中も気の休まると
きがないだろう。
あんな馬鹿そうな男でも、今西武池袋は恋する乙女のような顔をして、子供を毒牙にかける魔女の心積もりで埼京を
眺めているのだろうか。
数日後、埼京がお花を飛ばしながら川越をふらふらしていたので、ちょうどよいと捕まえた。
「幸せそうだな。」
「あ!東上!?そうなの〜幸せ・・・」
ほわほわと笑う埼京の頭を叩いてやりたかった。
「よかったな、西武池袋か?」
「そうなの・・・天国みたいだった・・・」
西武池袋は、関係をもった男たちに口止めを要求しないし、彼らが外で話しても気にしない。彼女の信念が変わらな
いのであれば、それでも確かに困らないどころか好都合なのかもしれない。
「そうか。」(これでお前も終わりだな。)
なんてせいせいとすることだろう。埼京はもう敵ではない、もう観察する必要もない。あとのことなど、もう知ったことで
はないのだ。
東上が待ちに待った最後の路線が開業した。地上にはもう電車を敷くスペースはないし、地下開発もこれで終わりだ
という。これでようやく西武池袋と接続・乗り入れを行う新線開業は終わりだ。よくもわるくも。
東上は最後の男の性格や外見を想像した。有楽町の後輩だから、まじめなやつなんだろうか。それとも意外と間逆と
か?そんな想像はすべて紙袋に打ち破られたわけだが。
西武池袋の行動を逐一追尾するわけにはいかないので、今回は副都心のお目付け役である有楽町が役に立った。
かつて自分が寝た女と後輩が同衾するのを阻止しようと、おそらくは無意識下で思っている彼は、無意識に東上に愚
痴を漏らす。
「あいつはすぐ西武池袋に迷惑かけるからさぁ・・・一人でほっぽってもおけねえよ。」
居酒屋でビールのジョッキを傾けながら、有楽町は赤い目元で文句をたらす。それが西武池袋への独占欲と、副都
心への嫉妬だなんて、東上には簡単にわかった。
もう一杯生を注文してから、東上は有楽町の心をくすぐるように語り掛ける。
「西武池袋はいやがってねえだろう。あいつは若い男が好きだからな。」
「やっぱりそうなの?やだなぁ、昔のこと思い出した。」
「俺なんかはまず範囲外だな。」
「副都心は要領がいいからさ、西武池袋の懐に入り込むのは早いと思うんだ。たぶん、あっというまに。」
若い蝶々が、年経た蜘蛛の巣にひっかかるように、副都心は飛び込んでいくのだろう。
彼は、美しい花の蜜を絞りつくすつもりで近寄るのかもしれないけれど、あれは綺麗な花などではなく、腐臭を撒き散
らす妖花のようなものだ。蜜を吸う前に捕らわれて、不要になれば捨てられる。
「お前はいやなのか?副都心と西武池袋が寝たら。」
「・・・嫌だよ。俺は、西武池袋も副都心も好きだもの。」
有楽町が思うほど、気を使うほど、あの二人は他人を気遣っていないように東上には見えた。副都心はもっとも西武
池袋に近いのかもしれない。もしも副都心が一度きりで面倒のない関係を望んでいるのなら、二人はとても良い形で始
まり、とても良い形で終わるのではないのだろうか。それは、東上にとっても良い形に違いない。
「なるようになるんじゃないか?」
東上は早く副都心と西武池袋が関係を持つように祈っていた。早く、早く、早く。西武池袋が一人きりになるように、有
楽町の願いを切り捨てて祈らずにはいられなかった。
東上にしてみると随分と待ち、有楽町にしてみるとあっという間だったある日、副都心はにやにやしながら東上に会い
にきた。
もうとうに紙袋をはずしていて、にやにやとした面を至る所で披露していた副都心の突然の来訪は、驚くようなもので
はなかった。雰囲気から、私用かなと東上は感じ取り、待ちにまった朗報かと胸を高鳴らせた。
冷静を装って、期待に満ちて次の言葉を待つ、一瞬が永遠のように思えた。
「西武池袋さんのお部屋に昨日泊まっちゃいました♪」
「へえ。」
「悔しくないですか?」
「別に、俺あいつ嫌いだし。」
「そんなことばっかりいっているから、西武池袋さんに相手してもらえないんですよ。」
「おまえこそわかってねえんだよ。」
彼女の願いを、副都心は叶えてやれるのだろうか。自分や、有楽町が叶えてあげたように、埼京が忘れないように。
武蔵野でさえ、きっと彼女のことを忘れないだろう。たとえ、その路線が廃止されたとしても。
「おまえ、西武池袋に何を求められたかわかってんのか?」
「一晩のお相手でしょう?追い掛け回す気はありませんよ。・・・あなたみたいにはね。」
こんな若造に自分の恋情を見破られたのかと、東上は顔から火が出るほど恥ずかしかった。あれだけ普段仲が悪い
のに、勘の良いガキに無性に腹が立つ。
「やっぱりわかってねえな。あいつは、お前に夜の相手を頼みたかったんじゃない。おまえが西武池袋を忘れないよう
に、その証拠が欲しかったんだよ。」
副都心はちょっと驚いた。少し黙って、それから顔をしかめた。まったく理解が出来ないという風に。
「おまえは覚えててやれよ。俺らが武蔵野を走れなくなった後も。初めての女の顔くらい忘れないもんだ。」
あの美人が悲痛に何十年も願っていることを、叫んであげたかった。彼女が願いを託した男たちに、きちんと意図を
教えてやりたかった。
東上以外は誰も彼女の願いを理解していないし、考えもしない。ただの色狂いくらいに思っているのだろう。それでは
彼女が報われない。何十年も、彼女が願ったのはたった一つのことなのに。
「俺じゃあ、あいつの願いは叶えてやれないんだ。でも、もう東京近郊に新線は出来ないから、あいつの行動も落ち着
くだろう。」
色素の薄い眉を思いっきり寄せて、副都心は腹立たしげに東上を睨んだ。
副都心はこんな話がしたくて東上のところにきたわけではない。悔しがらせたかっただけなのに、熱にうかされたよう
に西武池袋だけを見ている東上を絶望させてやりたかっただけなのに、目論見は大きく崩れた。
「・・・俺は、お前と西武池袋が寝たって話がわかれば十分だ。じゃあな。」
「どちらへいくんですか?」
「西武池袋のところ。俺も、ひとつケリを付けにいかねえとな。」
不機嫌な目を向ける副都心を置き去りにして、東上は和光市のホームを離れて池袋駅に向かう。副都心のフォロー
は有楽町に任せたほうがよいだろう、と東上は考えた。あのお人好し以上に、こういう場面を修復する度量のある人間
は池袋にいない。
もし修復できなかったからといって東上は悩まない、大正生まれの彼にとっては、戦後生まれなどみな青二才の若造
であった。無論、地下鉄二番目の路線である丸の内も例外ではなく、池袋の新参者、といった思いであった。
彼が昔話を出来るのは、池袋では山手と西武池袋だけで、さらにいえば省線だった山手よりも、苦労を重ねた私鉄仲
間の西武池袋の方が当然憎しみとともに愛着もあった。
金髪が揺れる彼女の風貌はこのところ何十年も変わらない、日に当たって太陽みたいに輝いている西武池袋はいと
も簡単に見つかった。
「む?なんだ、貧乏路線がなんのようだ。」
「お前、昨日副都心と寝たんだってな。」
出会いがしらに自分のベッドの動向をいわれて西武池袋は不機嫌になる。東上が注意や忠告をしていたのならもっと
不機嫌に声を荒げただろうが、東上がそういった意図ではないとなんとなく感じた西武池袋は黙って東上の次の言葉を
待つ。
「お前は、立派な路線だよ。ずっと一緒に走っている俺がいうんだから間違いない。」
「なにを、急に・・・」
「東京に新線ができることはおそらくもうない。・・・でも、みんなお前を忘れねえよ。」
「きさま、なにをいって・・・」
「忘れられたくなかったんだろ?本に残る路線としてだけじゃなくて、お前自身がいたことを忘れられたくなかったんだ
ろ?」
言い当てられて、西武池袋はそれ以上言葉が出ない。そうやって彼女は百年近く生きてきたのだから、指摘はとても
いまさらなのだ。でも、何十年も、たくさんの新線と寝たのに、だれも言わなかった。みな、彼女を童貞好きくらいにしか
理解できなかった。
それで西武池袋は別にかまわなかったから、否定も訂正もしなかった。だが、誰にでも理解されたいという欲求はあ
る。理解してくれた人が東上だったことが、嬉しいやら悔しいやら憎らしいやらで、唇をわたわたと動かすのに言葉が出
ない。
「明日からどうするんだ?もう新線はこないぞ。」
「貴様の知ったことではない。・・・もう、終わったのならいいんだ。一人寝を今までしてきたのだから、これから先も特
に困らない。」
東上は、好きだとか付き合おうとかはいえなかった。いえなくとも、もう西武池袋が他の男と寝ないのならば、平穏は
たもたれる、これからずっと。
「もう夏になるんだな。いい季節だ。」
「うむ。もう暑くなってきたし、もうそろそろ冷房車両の需要が増すなあ。」
仕事の話でしめくくって、東上は自分の駅に戻った。夏の風が気持ちよくふいて、彼女の嫌いな春が終わったのだとし
みじみ思った。
彼女が夏になれば元気になるように、東上も夏を好きになると思った。缶コーヒーもいつもよりずっと美味しい。まるで
恋が叶ったような幸福だった。
(7月26日 リクエスト表から抜ける手違いがあり、本当に申し訳ありませんでした!東上×西武池袋とは少し違うかもしれませんが・・・。私の中
でベストな東上×西武池袋はこれ!という思いがあるので、ご満足いただけるか甚だ不安ですが、このままリクエスト作品とさせていただきます。
どうぞお受け取りください。)