最近西武池袋の付き合い始めて浮かれまくっている有楽町と乗り入れに関する打ち合わせをしている東上の機嫌は 悪かった。有楽町も東上と西武池袋の仲の悪さは嫌と言うほど知っているのでのろけムードをだしたくないのだが、隠 しきれず顔に出してしまう。 「胸糞ワリィ。」 「そう言わないでよ、本当はのろけ話したいところを我慢してるんだから!」 「あーそう。」 「そうだ、頂き物のお菓子があるから持ってくるよ。」 「いらねえ、・・・ってもういっちまったのか。」 どうでもいい話や他愛ない話、どうしても聞いて欲しい愚痴など、取引先として友人として先輩として、東上はケーキと コーヒーがなくたって有楽町の話を聞いてやるつもりだ。それが、よりによってなぜ西武池袋の話を・・・と思いつつも勝 手に帰るほど無礼でもないので、東上はソファに深く腰掛けて既に出されているコーヒーに口をつける。メトロの応接間 は個室で、おもいっきりくつろいでも誰の目もはばかることはない。ぐーっと両腕を伸ばして筋をほぐしてから、東上は 窓の外に目をやった。普段地下を走る連中なのに、この応接室からはよく外が見える。東上が見る景色とは違う都会 の景色だが、いい眺めだ。 (西武池袋・・・と、有楽町・・・ねぇ・・・) 東上の複雑な心中と過去を知るはずもない有楽町に若干イライラする。いい男だと知っているから余計に。 ドアの前でがちゃがちゃと音がするのであけてやると、お菓子の箱を抱えた有楽町が立っていた。 「ありがとう、東上。」 「どーいたしまして。って、俺ら二人でそんなに食うのかよ!」 「とりあえず、あるの全部持ってきちゃった。どれでも好きなの選んで。良かったら越生に持っていってあげてよ。」 お客さんが持ってきたと思われる地方の銘菓が並んでいた。あまり目にすることのない西の方のお菓子を選び、別に 東海地方のお菓子を越生用に貰った。 「結構いろんなところからくるんだな。」 「そうだね、同じ地下鉄の方が多いかな。メトロとも営団とも全然違って面白いよ。他のところはみんな公営だからうち みたいな民営は珍しいらしくて、結構会いたがられたりするし。」 お菓子の袋を開けながら、有楽町は笑っていた。そういう話だけしてくれていればいいのに、なぜ西武池袋の話をす るんだ。手渡されたお菓子を受け取りながら、東上は不快感で胸が一杯になった。 「・・・でね、西武池袋がね・・・」 お菓子は美味しい。越生にお土産ももらった。少しは我慢してやろう、と東上はまたコーヒーに口をつける。おかわり が欲しいな、と思ったがなんとなく言い出せなかった。 遠慮なくお菓子を食べながら、東上は有楽町の話に水を差すわけではないがふと気になったことを聞いてみた。 「恋の一番の盛り上がりはどこ?」 自分でもその質問に驚く東上だが、有楽町はまくしたてるように話していたなごりでその質問に疑問も持たず答える。 「いまかなぁ、でも上がりっぱなしだからよくわかんない。」 あはは、とだらしなく笑う有楽町は幸せそのもので、東上はなぜか胃から気持ち悪いものが上がってくるのを感じる。 体の中で存在感を増すそれを無視して東上は有楽町にのろけ話を続けるよう指図した。 話が続き、詳しいシチュエーションなど聞くと体の中のそれはどんどん上がってきた。手足が冷たくなるのに反比例し て頭が熱くなる。まるで風邪のときのように。 「西武池袋の方が俺より背が高いじゃん。だからキスするのは座っているときが多いかなぁ。」 「キスすると真っ赤になるんだよ、それがかわいくてかわいくて!」 「終電いったあと池袋でちょっとだけ会えるんだけど、ときどき家にお邪魔することもあって。西武池袋の部屋に泊まら せてもらったりとか!」 有楽町の話が遠くに聞こえるようだった。高熱を出したときのように、体が自分のいうことを聞かなくて、具合が悪くて どうしようもなかった。 その日、東上は自分がどうやって家に帰ったのかよくわからない。越生に土産をきちんと渡せたのだから、有楽町の ところからまともに帰ってこられたのだろう。その日は夕食を作ることも出来ず、越生に心配されたがすぐに布団に包ま って眠ってしまった。眠ってこの体調不良のような不快感から逃げ出したくて。 その夜、東上は昔の夢をみた。むかしむかしの素敵な夢を。有楽町の登場しない素敵な夢だった。 数日後、東上に呼び出されて西武池袋は終電後に東上線のホームにいった。呼び出されたこと自体が不満なのに、 さらに東上は約束に遅刻し、挙句何も話さない。声すらかけてこない。西武池袋は自分から声をかけるのはしゃくなの で黙ってホームでは禁止されているはずのタバコを取り出す。それでも東上は何もいってこなかった。 ベンチに二人は人一人分のスペースを空けて座っている。西武池袋はイライラとタバコに火をつけた。客のいなくなっ たホームのベンチで、二人は奇妙な時間を共有している。 何かいいたいことがある、そう西武池袋は感じ取っていた。かといってそれがいい話であるとはとうてい思えなくてよけ いにイライラする。雲が多くて星が見えない、そもそも東京で星が見えただろうか、この前みた星はどこの駅で見たもの だっただろうか?西武池袋はどうでもいいことを考えて気を紛らわせる。 西武池袋に注意するどころか東上は自分もタバコの箱を取り出した。東上はタバコの箱を持ったまま、取り出すでも なく手の中でもて遊んでいる。そうすると中の葉っぱが箱の中に細かく散ってしまいそうで嫌なのだが、西武池袋はや めろとは言わずに、イライラと携帯灰皿のふちでタバコを叩いて灰を落とした。無論、苛立ちは東上に伝わらないように 仕草はゆったりと。なぜ苛立ちを伝えたくないのか。その理由を直視したくない西武池袋は自分の心の内から目をそむ ける。それを見てしまっては終わりだと知っているから。 その昔、東上と池袋は付き合う直前までいったけど、手を繋いだだけだった。まだ武蔵野鉄道と呼ばれていた頃、恥 ずかしくて、でも離せなかった手の熱さを今も覚えている。初恋だった。 いろいろあって時代が変わって西武池袋は東上の手を離してしまい、その後お互い違う人とたくさん付き合ってあの 頃の二人とは変わっている。キスすら経験したことのなかったうぶな二人はもうおらず、無駄に経験だけ積んだ年寄り が二人いるだけだ。 そして、年寄り二人の沈黙をようやく破ったのは東上の呼びかけだった。 「なぁ、西武池袋。」 罵り合うときと違う柔らかい物言いは西武池袋に出会ったばかりの幼い頃を思い起こさせる。山手は他にも重要な拠 点がいくつもあった上に省線仲間も沢山いたから池袋駅にばかりいるわけではなかった。そうなると同じく池袋を拠点 とする私鉄同士、東上と一緒にいる時間が長くなった。今と違って外食産業も発達していなかったから弁当をもちあっ て食べていた。東上の作った卵焼きの味まで思い起こす。 「あのとき、だめになった理由ってもうなくねぇか?」 唐突な話に、西武池袋は手にしたタバコを落としそうになる。 (平常心、平常心・・・) 一度深く肺まで煙を吸い込んで、それから吐き出して、西武池袋は東上の方を向いた。東上は西武池袋をまっすぐ見 ている。 「急に何を言い出す。そんな昔話をしに呼んだのか。」 「昔話の続きをするんだよ。今なら、うまくやれるんじゃね?」 じりじりと東上が西武池袋との距離をつめる。ほんの一人分の空間はあっという間になくなってしまった。 「・・・私には、有楽町がいる。」 「知ってるよ。だから、あいつに見つからない終電後のここに呼んだんじゃないか。」 東上はわざと囁くように少し声を落としていった。それでも西武池袋が聞き取れる距離に二人はいる。 西武池袋は東上の声が好きだった。憎みあって離れているうちは忘れていられたのに、こんな近くによられては皮膚 の下にある筋肉の具合まで思い出してしまう。 あの時は会長のことだけで一杯で、東上が入る隙間はなかった。企業の方針も相反して名実ともにライバル企業とな った。今も似たような地域を走る路線としてライバルであることは変わらないけれど、時代はさらに流れた。池袋駅の東 武と西武で争っても仕方ないと、渋谷や新宿に対抗して百貨店同士が距離を近づけた。それに伴って路線同士も次第 に距離が近づいて、昔のような険悪なムードは薄まっている。今、敵対視すべきは副都心が直通する予定で、かつ池 袋を拠点にしない路線達であって互いではない。 共存可能だと経験した東上よりも、因縁のある小田急や東急を憎むことに気持ちの比重を移行しつつある西武池袋 の中に東上が入り込む位置はわずかであるが、あった。乗り入れ路線の若くて可愛い男が座っている席の一部にもぐ りこむくらい、二人が共有した長い時間を思えば東上にとってたやすいことだ。 東上はさらに西武池袋との距離を縮めて近寄る。西武池袋が他人の体温にほだされ易いと知っている。気に入らな いことに、それは他所から聞いた情報だけれども。 「・・・やめろ東上っ!」 手を払ってみても、ベンチから立ち上がるタイミングをつかめない西武池袋は空気に流されてしまう。ゆったりと自信 ありげに振る舞う東上が憎らしい。 東上はことさら柔らかく耳あたりのいいように彼の名前を呼んだ。大嫌いなあの男がつけた名前。本当は武蔵野と呼 びたいところを我慢して、西武池袋が落ち易いように、彼の大好きな会長がつけた名前を呼んでやる。 「西武池袋。」 そんな風に呼ばれたら、無理やり過去に押し込んだ恋が扉を押し開けて出てきてしまって、西武池袋はそれ以上東 上を退けられなくなる。 好きだったことさえずっと思い出さないようにして、手を繋いだあの感触も思い出さないようにしていたのに。体は勝手 に全て思い出してしまう。触られたところから総毛立って抗えない。いつだって逃げられるとでもいうようにゆっくりと少し ずつ西武池袋に触れる手に怯えながら、西武池袋は体ごと抱き締められるのを受け入れ、ためらいがちに東上の背 に手を回した。 もう職員はいないし、電気も消されているから山手のホームから二人の姿が見えるということはないと思うが、唇を合 わせて舌を行きかわせる行為を誰かに見られやしないかと西武池袋は気が気でなかった。それでも、だんだんと痺れ る頭はそんなことどうでもよくさせてくる。思い出のふたが開いてしまった今、西武池袋に有楽町のことを思いやる余裕 はない。有楽町のことは有楽町として好きだったはずなのに、今は短絡的に目の前の男のことだけを考えている。 コートのボタンに手をかけようとした東上に驚いて、西武池袋はその手を払った。 「ここでする気か!?」 東上はあっけに取られたように一瞬間をおいて、それから、今からどこか移動する余裕ねぇよ、と笑った。 「それとも、お前はその勃起させたもんぶらさげてホテルいきたいわけ?」 西武池袋の顔が真っ赤に染まる。経験がないわけではないけれど、初恋の相手と初めて行為に及ぶのだ、もう少し 情緒があっても・・・と少し憎らしく思ってから、そんな関係ではなかったなと西武池袋は自嘲した。きっとこれが最初で 最後だ、東上は西武池袋を口説くような台詞を吐いたけれど、自分には有楽町がいる。だから、これは今夜一度きり の浮気なのだから大層なことを望む愚か者であってならない。自分で思い浮かべた「浮気」の二文字にズキリの胸を痛 めながら、西武池袋は自分から東上にキスした。 「コートを脱ぐまでのことでもなかろう。」 その文句に、東上は今までに西武池袋の上を通り過ぎて行った男達を想像して憎らしくなった。そう西武池袋が言え るようになったのは、あの優しい有楽町ではない別の男と一緒にいたときだろう。知らない誰かに嫉妬する。 「・・・あ、そう。じゃあ、下だけ脱がすからな。」 コートをたくしあげられ、東上が器用にベルトを外すとあっというまにスラックスが脱がされて西武池袋の細い足があ らわになる。初めて見る部分に息を呑みながら、東上は他の男を抱くときと同じように西武池袋を抱いた。それは、相 手が西武池袋だということと、ベンチの上なんてことを除けばいつもと同じ行為だった。前戯、挿入、射精。たったそれ だけの流れなのに、東上には特別な時間に感じられた。いつも左目を隠す前髪は腰の動きに合わせて散って、左目を あらわにした。薄く開いた唇にこれ幸いと貪りつくと、西武池袋もそれに応える。 夢のような時間だった。いつまでもいつまでも過ごしていたいと思うのに、体はいつのまにか限界を迎えて西武池袋 のなかで果ててしまう。西武池袋は既に何度か射精していたようで、腹部は精液でべとべとになっていて互いの服も汚 していた。 「コート汚れちまったなぁ。」 東上が体を離すと西武池袋もゆっくりと体を起こす。 「コートが汚れたことよりも、背中が痛いんだが。」 そりゃ、ベンチの上でやればそうなるよなぁ、と思った東上は素直にワリィと謝った。 「悪いと思うなら、貴様にもベンチに横になってもらおうか。」 「え」 柔らかく押し倒された東上の上に西武池袋が跨る。西武池袋の手で握られるとそれだけで東上は勃起した。 「まだいけるな。」 先ほどまで使っていた穴に宛がうと、西武池袋は一気に腰を落とした。 「・・・んんっ!」 東上は自分に跨る西武池袋を不思議なものを見るような目でみた。流されて拒めなくなってさっきの流れに落ちたの だと思ったのに、今西武池袋は自分のいいように腰を振っている。 「なんで?」 柔らかい肉壁にこすられる快感に耐えながら東上が問うと、西武池袋は腰を止めずに答えた。 「だって、今日一回だけだろう?」 そのとき、西武池袋は泣きそうな顔をして目の淵に涙を一杯に溜めていたから、動いたついでにそれが粒になって東 上の顔に降った。 それから、西武池袋は嬌声を漏らしながら、ときどきぽつぽつと涙をこぼした。東上は気持ちいいのとどうしていいの かわからなくて、西武池袋の手を引いて自分のほうに引き寄せ抱きしめた。 「今度は、部屋に呼ぶから。」 西武池袋は首を横に振り、また泣いた。 それから、東上はときどき西武池袋を部屋に呼ぶようになった。池袋界隈であまり会うとメトロの誰かに見られる危険 性があるし、直通運転をしている関係からあまりお互いの路線でも有楽町の目がないところはないのだが、それでも数 ヶ月に一度くらいは会うことが出来た。 そのたびに、西武池袋は不機嫌そうにやってきてそれでも東上と寝て、そのたびに泣いた。泣くくらいなら来なくてもい いんだ、と東上がいっても西武池袋は何も言わなかった。池袋駅で顔を合わせればいつも通り罵詈雑言を浴びせてく るのに、二人きりのとき西武池袋は寡黙だった。いつも悲しそうな苦しそうな顔をして、幸せそうではなかった。 (こんな風にしたかったわけじゃないのに。) 東上は頭を抱えた。西武池袋と二人きりの寡黙な空間は苦痛じゃない。西武池袋が泣いていて、何もしてやれなくて も、東上は二人でいられて幸せだった。有楽町への罪悪感なんて忘れてしまった。 「西武池袋。」 東上が名前を呼ぶと、西武池袋はちょっと笑った。 「もう一回呼べ。」 西武池袋の手を握って、東上は何度でも西武池袋を呼んだ。何度も、何度も。 「西武池袋。」 ぎゅ、と手を握る力が強くなる。このプライドが高い男は有楽町の前で甘えたり弱みを見せたり出来ないのだろう、と 容易に想像が付いた。その無理をカバーするために東上のところに来ている。 あのとき有楽町ののろけ話から始まって、もう取り返しのつかないところまできてしまったことを東上は後悔した。あの 真面目で優しい男を裏切る結果を最初に歩き始めたのだから自分で幕を引かなければと、東上は自分の役回りを覚 悟する。有楽町が西武池袋と付き合い始める前に素直になれればよかったのに、そうすれば彼を傷つけずに済んだ のにと後悔しても、もう何もかもが遅い。 息を吸って、東上はついにその殺し文句を口にした。 「西武池袋、有楽町と別れて俺にしろ。」 西武池袋はまぶたを開けて東上を見て、「正気か?」と聞いた。 「冗談で、あの有楽町に酷なこというかよ。」 「そうだな。あれはいい奴だから。」 西武池袋は小さな声でそういって、それから東上に抱きついた。 「・・・あれを捨てるなんて、私はなんて愚か者なんだろうな。」 東上は西武池袋の体を抱きしめ返しながら、何度も後悔した。後悔して後悔しても、それでもようやく手に入れた西武 池袋を手放す気にはなれなかった。 翌朝、有楽町には自分から話すと東上は何度も言ったが西武池袋は頑なに受け入れなかった。 「私と有楽町の問題なのだから貴様が出るな。話がややこしくなる。」 西武池袋はそういって、一人でメトロに向かった。東上にできることは本当に何もないので事務所でお茶を沸かして待 っているよ、と無理して笑って手を振った。 西武池袋は今日の天気を確認してから、まず自分の事務所に戻った。事務所はいつも通りである。自分の気に入っ た文房具の入ったデスク、西武のカレンダー、仮眠も取れるソファ。何もかもがいつも通りで、西武池袋は体の力が抜 けてソファに座り混んだ。今日の早朝ラッシュはこれからだ。ここでのんびりせず朝食を何か口にして早くホームに向か わなくてはいけない。 何時頃有楽町に会って話をするか、それを考えあぐねて西武池袋はお湯を沸かしながら黙り込む。そして、不意に鼻 歌を歌った。悲しいのに嬉しい、楽しいのに辛い。いろんなものが一緒くたになってしまって、それをまとめるために楽し い歌でも歌ってみると世の中がとっても単純なものに見えた。朝食前に片付けてしまおうと、西武池袋は携帯と財布を 持って事務所を出る。 着信履歴の一番上にある番号を押すと、有楽町は2コールですぐに出た。 「今から時間あるか。」 電話の向こうでは有楽町が嬉々として待ち合わせ場所を言ってくる。まさか別れ話をされるなんて思ってもいない有 楽町の様子に西武池袋は心が痛んでそれをぐっと押さえ込んだ。ラッシュ前に少し会うだけでこれほど喜んでくれる若 い男を捨てる何て正気の沙汰ではないのではないだろうか?西武池袋は昨日の決意がぐらぐらと揺れ動くのを感じた が、つばを飲み込んで胸の奥に押さえ込んだ。どうせ落ちる泥沼ならば東上と一緒にいたいと決めたのは自分なのだ からと西武池袋は足と手に力を入れる。 ああもうどうとでもなれとなげやりに待ち合わせ場所に向かう足取りは重いのに、心のどこかは明日からあの憎たらし い東上と毎日を過ごせるのかと喜んでいた。腹立たしいから、そんなこと絶対に東上に言わないけれど。 西武池袋駅北口に近い通路で、山手は人形を抱えて立ち、有楽町は無作法に座り込んでいた。ここならば東上と西 武池袋に会う可能性は低いし、手に持った缶コーヒーは温かい。 「いい人すぎるよ。」 有楽町の愚痴交じりの説明を聞いた後の内回りの声は多分に哀れみを含んでいた。それでいて優しい。 「あーうん、そう思うんだけどさ。西武池袋が幸せなら俺はそれでいいんだ。」 缶コーヒーをすすりつつ、有楽町は通り過ぎる人の流れに目をやる。誰も彼もが山手にも有楽町にも意識を払ってい なかった。川のように、互いに意識を交差させるそぶりを見せぬ人の流れは自然そのもののようだ。 「負け惜しみってやつ?」 「なのかもなぁ、でもちょっと違う気もする。」 外回りはぽんぽんと有楽町の頭を撫でた。 「・・・頭撫でられたのって何十年ぶりだろ。」 はは、と笑う有楽町は顔を上げなかったが、外回りは見下すように冷たい視線を寄越していた。 「その妥協はいつか膿んで自らを苦しめるぞ。」 外回りの声は低く有楽町の頭を埋めてく。 「うん、そうかもね。でも、もうどうしようもないじゃん。」 「俺たちは長い時を走るんだ。今は若造のお前も、もう50年も走れば経験だって東上と並べる。地上は俺らが王者だ が、お前たちは地下の覇者だろう?もっと胸を張れ、私鉄に遅れをとるな。」 励ます山手に、有楽町は苦い笑いを返した。 「でも、俺らはもう私鉄になったんだよ。」 「株式上場している俺たちより、お前達の方がよっぽど公営だと思うが。」 「そういう考え方もあるな。」 微糖って結構甘いよなぁ、と思いながら有楽町は残りのコーヒーを飲み干した。 「さて、東上から西武池袋を奪い返すためにも、午後からひとっぱたらきしよっか★」 「・・・それはおいおい考えるよ。」 有楽町の脳裏には、東上と並ぶ西武池袋の怒った顔が浮かんでいた。自分と二人きりの時には絶対に見せなかっ た西武池袋の自然な感情の吐露が、有楽町の恋心にふたをしていく。 それは、いつか熟して食べられない状態になってから有楽町の心を飛び出していくのだろう、それはそれで、と老獪で 悪趣味な想像をして山手は内回りをかたかたと笑わせたのだった。 (2010.7.25) |