自己犠牲の愛情値











 『上越』
 その名前を返上してしまった彼は名無しとなって、新幹線の高架を呆然と眺めていた。
 東京駅には新幹線の休憩室もあって、自分の部屋もあったのだけれど、荷物は全て引き上げた。今まで寮に住んで
いて外の世界で暮らしたことなどなかったから、会社に世話してもらって部屋を借りた。
 今までの寮とは比べ物にならないほど狭くて小さな古い1ルームだったが、これからの生活を考えたら一番いいだろ
う、とかつての上司が淡々と言った。入社したころからおちょくってきた日本最難関の大学を出てエリート街道を歩いて
きた男に、今ではもう大人しく「ありがとうございます。」と答えるだけだった。




 会社を出てから中央線に乗って、本当なら起点駅となるはずだった新宿駅に向かう。途中、在来線の彼を遠くに見た
けれど、気を使ってか、それとも本当に気付かなかったのか、目が合うことはなかった。
 (気付かない、よな・・・)
 支給品のコートは返してしまったから、昨日上野で慌てて買った黒い着慣れないコートを着ていた。『上官は深緑』とイ
メージ付けされている彼らにはわからないだろう。
 各駅停車はたらたら進んでいく、ちょっと走っては、すぐに止まって、またすぐに走りだして、すぐに止まる。
 列車の振動、乗り心地。彼も持っていたはずの、心臓の音。
 (あー、涙が出そう。) 
 電車の中で大の男が泣いたらどんな目で見られるかわからない、何か別のことを考えてごまかそうとして、人生、仕
事だけだった、仕事は新幹線だけだったと気付く。それ以外には何もなかったと。
 「あー、もう嫌なっちゃうなぁ・・・」
 ようやくついた新宿駅のホームは冬の風が吹いていて寒かった。
 せっかく無職になったのだし、時間はあるし買い物をしようとデパートに入る。今まで大してお金を使うこともなかった
から通帳にはかなりの額がたまっていた。とりあえずに生活にはなんら困らない程度に。
 「あ、これ秋田に似合いそう。こまち色だし。」
 「北陸も、長野の頃はこういうのきてくれたのにな。」
 「東海道って高い時計してるんだよなー・・・誰が選ぶんだろう?自分じゃないだろうし・・・」
 「山形が好きだったよな、ここの和菓子。あー、あれは東北の・・・」
 東北の、とつぶやいたところで、涙がついにこぼれた。あわてずに、ゆっくりと、トイレの個室に駆け込む。
 (東北・・・)
 なんともいえない複雑な気持ちが溢れた。同期の彼はあんなに輝いているのに、自分はもう廃線になり、会社すら解
雇されて、記録の中に残るだけの、かつての特急たちと同じように消えていってしまうのだ。
 (そうやって東北も秋田も北陸も東海道も山陽も俺のことを忘れるんだ。九州は・・・そもそも僕のこと、知ってるのか
な?)
 たまらなかった。つらかった。今まで我慢した涙がぼろぼろこぼれた。トイレットペーパーをぐるぐる巻いて涙を拭く。
それでも人目を気にして声は上げずにすすり泣いた。
 涙がだらだらと流れて買ったばかりのコートを濡らした。黒でよかった、濡れても濡れてなくても色が変わらない。




 (ああもう、これからの人生をどうしていったらいいんだか。)
 開通直後の華々しさが戻ってくることはない、お先真っ暗な人生が静かに横たわっている。
 誕生からして輝いていないと思っていた。いらない路線だと思っていた。それでもいられたころは必要とされていて、
自分なりに輝いていたのだと知る。
 (そうだ、電車を見に行こう。)
 さきほど走っていた彼の路線を見に行こう。
 自分も走っていた、冷たいレールに身を投げたら、きっともう一度心臓の音を取り戻せるはずなのだ。今はもう聞こえ
なくなってしまった上越の音を。


 ふわふわとした雪が降ってきた。上越の良く知る日本海の重い雪とはまた違う重い雪だった。
 (北陸がいっていたな、雪の降る日は寒くないって。)
 長野は嘘をつかない子だったのに、北陸は嘘ばっかり、と上越は思う。
 新宿の曇った空はかつてない寒い風を上越に吹きつけた。
 暖かいところに行きたかった。デパートの暖房の風では上越を温められない。線路と車輪がこすれあう摩擦熱を上越
は望んでいた。
 その間に挟まれて、最後にあったかい思いをして、どこか遠いところへいってしまいたいのだ。
 
 






 ホームは混んでいて、この人ごみの中から中央が上越だったただの男を見つけることはほぼ不可能だった。
 上越はレールをじっと見つめる。雪が降ってはとけていく鉄製のレールと木製の枕木は、上越を暖かく呼んでいるよう
だった。つい先日まで、上越も専用のそれらをもっていたのだ。自分だけが走る道。在来線のレールを使うミニ新幹線
とは格が違う、いつもそう思って山形や秋田を心の中で見下していた。
 あのレールはどこにいってしまうのだろうか。大切なレールは。
 上越の体はぐらりと傾く。電車の音が近くに聞こえた。









































 「・・・ぱい、上越先輩。」

 ふわふわした柔らかい手が頬に触れているのに気付いた。
 (きもちいなー、これが天国か・・・)
 「先輩!起きてください!勤務中ですよ!」
 (勤務中?)
 目をぱち!と開くと、そこには長野がいた。小さい長野は、先ほど思い浮かべていた青年の姿とはぜんぜん違う。
 「先輩、先ほど東海道先輩が呼ばれていました。なんだか、先月の報告書に不備があるとかで。」
 「・・・ああ、仕事の話。」
 天国でも仕事をさせられるのか、と思った上越の頭は次第に覚醒してきて、これが現実なのだとも、さっきまでが夢だ
ったのだともはっきりとわかった。
 「何の報告書か聞いてる?」
 「あ、はい!クレーム案件の報告書が一枚抜けているそうです。」
 「わかった、すぐに印刷しなおして持っていく。ありがとうね。」
 くしゃりと頭をなでてやると、長野はくったくのない笑顔を浮かべる。少しでも上越のためにできることがあると喜ぶ子
供なのだ。その素直な子供がいつか自分の路線を殺すのだと思うと、上越でもやるせなくなった。
 「・・・長野、早く大きくなるんだよ。」
 「はい!早く大きくなって先輩方のように立派に走りたいです!」
 夢の中ではわからなかったが、他人のレールに横たわったとき、自分は何を思うのだろうと、上越はそればかり考え
ていたのだった。
 (僕は君のために死んであげる。)
 小さな子供に突きつける現実を飲み込んで、上越はもう一度長野の頭を撫でた。


























(8月9日 タイトルはロメア様からお借りしました。)