決定的現場に立ち会うなんて、百年近い鉄道生で初めてだった。

 合鍵を渡してくれた男の家に初めて連絡なしで来たときのこと、ドアを開けるとベッドの上には裸の恋人と知らない
女。
 これが知っている女だったらもっと激怒しただろうが、知らない女だった。きっとただの女、あと数年で美しさの盛りを
迎えて散るだけの女と思うと、一瞬沸騰しかけた心は妙な静けさを取り戻した。
 「おい、副都心。合鍵を渡しておいて他の女を家にあげるな。」
 ぼんやりと寝起きの目をこする副都心はかわいい。綺麗な顔に可愛い仕草は反則だと思う。
 「西武池袋さん…?あーおはようございます…」
 「もう10時だ。全く、休みとはいえもう少しきっちりとした生活を出来ないのか?」
 「休みなんですから細かいこと言わないで下さいよもー…」
 西武池袋と副都心が日常会話をさらりとこなす中、女は西武池袋を凝視したまま固まっていた。
  「こんないい天気なんだからゆっくり寝ましょうよ〜」
 どんよりとした曇り空は家の中で眠るには絶好の天気だった。適度に低い室温、適度な湿度。
 「寝るのはいいが、私の場所がないだろう。」
 西武池袋はため息をつきつつカバンを床に下ろした。
 「あぁ、この子ですか?」
 彼女を無視した会話のなか、副都心は綺麗な顔をそのまま女に向けた。
 「悪いんだけど、帰ってくれる?」
 裸のまま固まっていた女は急に動き出したかと思うとものすごい勢いで服をきて玄関から飛び出していった。
 「いい子だったのになぁ。西武池袋さんが来るから逃げちゃったじゃないですか。」 
 「なら、私に出て行けといえばよかったじゃないか。」
 ベッドサイドから副都心を見下ろす西武池袋の視線に刺はあっても毒はない。
 「できるわけないっスよ。俺、あんたが好きですもん。」
 さらりといってのける副都心の言葉を、西武池袋は欠片も疑わない。
 「なら最初から家にあげるな。」
 「西武池袋さんも家に来るって連絡くれなかったじゃないですか。寂しいからいつでも来てくれる女を呼んじゃったんス
よ。」
 さりげに避難されている。こういう場合はお互い様なのだろうか、と思って西武池袋はそれ以上言及しなかった。
 「で、アンタは昨日どこにいたんです?」
 カーテンを開けても日差しは入ってこなかった。窓を開けて空気を入れ換えてから、西武池袋は振り向かずに答え
た。
 「有楽町のところ。」
 は、と副都心の吐き捨てるような声が聞こえたがそれ以上はなにも言わなかった。
 「アンタだって…」
 それ以上言えない副都心のいいたいことはわかった。
 「それでもいいと言ったのは貴様だろう。まったく…いつもそういう風に拗ねた口をきくからたまには私から来てやった
というのに。」
 椅子に座って西武池袋はテレビの電源をリモコンでいれると、無機質なニュースが無機質な部屋に人間の声を響か
せた。
 「貴様が他の女や男を連れ込もうと私は構わないぞ。」
 「俺は、あなたが先輩のとこに行くのは嫌です。」
 頬を膨らませて恨み言をいう副都心はまるで子供のようだが、その子供を限りなく愛しつつ決して一番にはしない西
武池袋は愛でる目で眺めた。
 「なら、会うのを止めるか?いくら鈍いアイツ相手でも浮気を隠すのは疲れるんだ。」
 視線をテレビに向けたまま、他愛ない話のように別れ話を持ち出す西武池袋に副都心は腹が立ち、同時に泣きそう
になった。
 「先輩と別れて下さい。」
 副都心はちゃかすでもなく、本心からのわがままをはっきりと言った。西武池袋は困った顔で笑う。副都心はそんな顔
をさせたかったのではない、無理ならば無理で捨てられてしまいたいのに。
 「私の足はもう止まってしまって、自分ではどうにもできないんだよ。」
 浮気がバレて有楽町に捨てられたら貴様だけのものになるかな、と心にもないことをいってのける西武池袋に副都心
に真心は伝わらない。
 「俺と付き合ってください。」
 西武池袋は、真摯に見つめてくる副都心の目を見られなかった。
 「考えておこう。」
 先ほどベッドサイドに置いていたバッグを持つと、西武池袋は玄関に向かっていく。副都心は追いかけたかったのだ
けれど、追いかけたところで西武池袋が変わるわけではないことを知っているから追いかけない。
 「外から鍵をかけておくから、ゆっくり眠るといい。」
 (もうたわ言を言わないように。)
 そう釘をさされた気がして、副都心はさらに焦燥と不快感に駆り立てられる。西武池袋を独り占めしたいのに、西武池
袋はそうさせてくれない。ムリならばいっそ手の届かぬ高嶺の花となってくれたらいいのに、それもしてくれない。副都心
の手の届きそうなところでふらふらしている。
 がちゃりと鍵のかかる音がした。こんな場面に立ち会っても合鍵を返さない西武池袋に呆れ果てるとともに、小さな期
待を副都心は抱いた。それがどれほど虚しい期待とわかっていても、副都心はその期待を捨てられなかった。





 






 暗い空の中、西武池袋は先ほどまでいた家に戻っていく。キーケースからマンションのオートロック部の鍵を開け、エ
レベーターであがっていくと、目当ての部屋の前に着く。その部屋のドアも持っている鍵で開けて中に入った。
 「ただいま。」
 「・・・おかえり。」
 ベッドの上では有楽町が眠い目をこすっている。副都心と似たような仕草をすると二人は似ていなくもない。副都心の
方が格段に綺麗な顔をしているけれど、先輩後輩ではなく兄弟なのではと錯覚する。
 「仕事は終わったのか?」
 「ああ。大したことではなかったのだが、私の決済が必要だったのだ。」
 嘘ばっかり、と西武池袋は自分を笑う。年中無休の仕事の大変さはお互いわかっているだけに、有楽町は西武池袋
の嘘を疑わない。自分の経験からこういう時間ならこういう仕事が、なんて想像がついてしまうだけに有楽町は嘘を見
抜けない。
 「休みの日に悪かったな。」
 「いいよ。仕事なら仕方ないし、俺は寝てたから。」
 ベッドから動かない有楽町のために西武池袋は朝食の支度をする。大したものが入っていない有楽町の冷蔵庫では
どうしようもないので、先ほど副都心のマンションから戻る途中で買ってきた卵や野菜をスーパーの袋から取り出す。
 「卵はどうする?」
 「ゆで卵がいい。」
 「わかった。」
 朝食の卵といえば目玉焼きかスクランブルエッグか卵焼きが主流な西武池袋にしてみると、ゆで卵とはずいぶん斬
新なリクエストのように思えた。今まで有楽町に何度も朝食を作ったけれど、ゆで卵を頼まれたのは初めてだった。
 「すぐ作るから、シャワーでも浴びてきたらどうだ?」
 「そうする、ありがとう。」
 有楽町はどこまでも優しい。西武池袋が食事を作れば、有楽町が食器を洗うし、感謝の言葉を常に絶やさない。西武
池袋は副都心のために料理をしたことはなかった。だいたい外食をした後、副都心の部屋に流れこんでセックスするだ
けだった。だから、西武池袋は副都心と適度な距離感の、お互いに都合のいい関係を気付けていると思い込んでいた
のだけれど。
 (独占させて、なんてよくあの口が言う。)
 副都心を買いかぶりすぎていたことに落胆しつつ、西武池袋は副都心が生まれたての赤子のように手近な人間に独
占欲をもったことがおかしくて笑いたくなった。有楽町にも話して笑いあいたいのにできないのが残念でしかたない。
 サラダとゆで卵とベーコンにトースト。簡単な朝食をテーブルに並べてエプロンをはずして西武池袋は有楽町が風呂
から上がるのを待っている。シャワーの水音が聞こえるのが心地いい。それは副都心の部屋でテレビをつけたときの
気持ちとは大きくことなっていた。
 「お待たせ。西武池袋もシャワー浴びる?」
 既にワイシャツとスラックスを着た有楽町が背筋正しく椅子に座る。何をしても必ず西武池袋のことも気にしてくれる、
 そういうところが好きなのだ。
 「出る前に浴びた。それより、さっさと食え。」
 「うん。いただきます。」
 「いただきます。」
 食事中も日常会話を日常会話らしくする。今日の天気から混雑具合の予想などなど、副都心との刺激的な夜からは
想像できない退屈で愛おしい時間だった。そう思った途端に、ポケットの中の鍵が重くなった。有楽町を裏切ったことを
重く考えていない西武池袋だが、副都心の部屋が急に色あせたように思って、途端に興味がなくなっていく。
 「じゃあな。」
 「うん、西武池袋も一日頑張ってね。」
 玄関を出て別の方向に歩き出す。出社時間にまで少しあるが、西武池袋は有楽町と同じ時間に部屋を出て仕事に向
かう。池袋駅でやることは山のようにあるし、こなしても新しい仕事がまたやってくる。何十年も続くルーティーンワーク
は西武池袋の人生に組み込まれていて苦痛ではないけれど、単純な日々に何か刺激をもたらしたくなることは多々あ
った。それが、副都心だったのだけれども。
 (面倒になる前に、なんとかしないと。)
 それは刺激を求めた西武池袋の当然の責任であって、西武池袋は面倒くさがらずにきちんと遂行しなければならな
いのだが、西武池袋には嫌なことだった。その刺激と決別するのにはまだ少し決心が足りなかった。















 ラッシュも終わり事務処理も一区切りついたところで、そろそろ昼食に行こうかと書類をファイルに戻した西武池袋に
来客があった。
 「鍵は開いている。勝手に入れ。」
 西武池袋の休憩室は他の駅員と共有していないから、来訪する客はほぼ他路線か業務連絡を行う駅員だけだった。
当然のように入ってくる路線が多い中、ノックする客を少々不審に思う。
 「どーも。」
 「・・・副都心。」
 傲岸不遜な振る舞いの彼がドアをノックするなんて珍しい。そう思う前に西武池袋は息を飲んだ。そのうち話をしよう
と思っていたが、こんな早くに来られてはまだどうするか決めていないから話を切り出せない。
 「お昼は食べました?良かったらどこか食べにいきましょう。」
 有楽町の家から直接来たため弁当を持っていない西武池袋には、その誘いを断る理由もない。断ってもいいのだけ
れど、ここで一気に話をつけてしまおうと誘いに乗った。

 「今朝はすみませんでした。」
 殊勝に謝る副都心はとても奇妙で西武池袋はくすぐったくなった。
 「別に。さきほどもいったが、私は貴様が女を連れ込もうが男を連れ込もうが構わん。好きにするといい。」
 「そうですよね。そうなんですよ。でも、僕はあなたを独り占めしたいんです。」
 そんなわがままを、と西武池袋は言えなかった。西武池袋の好みの顔立ちをしている副都心に直接あってしまえば、
今朝の決心は揺らいでしまう。
 「今日、うちに泊まりにきませんか?」
 いつもなら副都心の家に行っただろう、二日連続の外泊は気が引けるができないことはない。秘密の夜を楽しむため
ならそれくらいはできた。でも、今日は断らなければいけなかった。そこでふと、なぜ今日断らなければいけないのか考
える。昨日でも良かったし明日でも良いのになぜ今日なのか。
 結局、西武池袋が浮気を許せなかっただけなのだった。するのは許せてもされるのは許せないもので、西武池袋は
自分が全うな恋愛感を持っていたことにいまさら驚いてしまった。
 「なんで、僕に抱かれたんですか。」
 「・・・退屈だったから、貴様もそうだっただろう?人のものを抱くのは興奮すると思わなかったか?」
 確かにそうなのだけれど、入り口はなんであれ西武池袋に執着を抱いてしまった副都心と、初心を忘れなかった西武
池袋とではあまりに壁ができてしまった。
「カギ、返すぞ。」
 テーブルの上に五千円札と重しのようにカギを置いて立ち上がる。
 「西武池袋さんっ!」
 「会計しとけ。」
 副都心は西武池袋にカギを投げつけようとしたけれど、結局握り締めていた。西武池袋は途中で振り返ってそれを確
認して店を出る。
 副都心が西武池袋を追いかけられない気持ちも重々わかって、西武池袋はそれをいいように手にとって副都心を捨
てていく。一方的な関係ではないのに一方的に振ってしまって申し訳ないと思う気持ちもあるけれど、一度冷えた気持
ちは戻らない。
 副都心がこのことを有楽町にばらしたら?西武池袋にはそれもわりとどうでもいいことのように思えた。
(そうしたら退屈な日常がまた刺激まみれになるだろうし。)
 有楽町のもたらす日常の安寧を幸福だと思った頭は、あっという間にそれを忘れてまた都合のいい主張をひねり出
す。
 「会長がいらっしゃれば、楽しいことしかないのに。」
 会長がなくなられた現実を口にするのは、何年たってもつらいことだった。けれど、口に出しても泣かないくらいに西
武池袋の背負う物も手に入れたものも増えていた。それがときどき嬉しい。
 有楽町の家のカギが付いたキーケースを握り締めて西武池袋は自分の路線に戻っていく。キラキラとカギが光を反
射して綺麗だった。






























(9月12日)