シーツに溺れて
西武池袋は船を漕ぐような性格ではないから、眉間にしわをよせて不機嫌にしているのは寝不足が原因なんじゃない
かと西武秩父は考えた。
「あとはオレがやるから、西武池袋は先に帰る?」
普段よりも明らかにワンテンポ遅く西武池袋は顔を上げた。
「なぜ。お前だけに押し付けることなどできん。」
若干荒い口調にも西武秩父は動じない。これが有楽町あたりだったら焦るんだろうなと生真面目な取引先を思い浮
かべて西武秩父は一方的に同情する。
「オレだって普段なら嫌だけどさ。今日は無理しないでよ。」
「バカをいうな。私を誰だと思っている。」
冷たい声。そりゃ、池袋系の本線様ですけどね、と西武秩父は思ったけれど顔には出さない。けして馬鹿にしたり悪く
いうつもりで本線様と思うわけではないけれど、普段は愛すべき気位の高さがこういう事態では非常にやっかいで、どう
やって彼の繊細な気位を守りつつ説得すべきか思考を巡らす。けれど、なめらかに滑る舌は合間もおかずに次の説得
を試みた。
「西武有楽町が怖がる。」
彼の一番の弱みを単純につけこんだ説得は、説得などといえたものではないけれど簡単にそして上手に西武池袋を折
った。
「西武有楽町が?」
「うん、今みたいなときは、ちょっと距離をおくだろう?」
そうだったか、と今までを思い浮かべた西武池袋は、そういえばそうだったかもしれないと考えた。ならば今日は早く眠
って明日西武有楽町に笑ってやればいいと。
急に立ち上がった西武池袋はハンガーにかけてあったコートをとって、通勤カバンを持った。
「なら、あとは頼んだぞ。今日中に仕上げなくともよいから、適当なところで切り上げろ。」
「ああ、今日は食事と弁当いいから、ゆっくり寝ろよ。」
「お言葉に甘えさせてもらうとしよう。」
ふと目が覚めて時計を見ると1時だった。
不快な夢に寝汗をかいて気持ち悪く、シャワーを浴びようと西武池袋は立ち上がった。夢の内容は忘れてしまったが、
思い出せないのに腹立たしいような切ないような苦しいような嫌な気持ちになったので、不快感を洗い流そうとシャワー
を浴びる。
こんなときはゆっくりと眠れないのを西武池袋は知っているので、もう一度一人のベッドに入る気持ちになれなかった。
明日の朝を考慮して長く寝られるようにと選んだ池袋駅のベッドがマイナスになって、いま西武線は誰も近くにいない。
家族がいれば隣で眠ってもらえるのに、こんな遠くては呼び寄せられない。
携帯を握り締めてメモリを開き、普段はめったに携帯で連絡することのない番号を表示して西武池袋は息を呑んだ。も
しもつかまれば、話を聞いてもらって一緒に寝てもらって楽になれるけれど、そんな恥をしのげるだろうか。
(どうしようか。)
逡巡しているうちに偶然押されてしまった通話ボタンは呼び出し音をたてた。西武池袋はもう切ることもできず、この
偶然に流されて携帯を耳に当てる。呼び出し音が1コール2コール3コール4コール目で電話に出た相手は低く抑揚の
無い声で「どうした。」と問うた。
「嫌なものを見た。」
嫌な夢、と言えなくて西武池袋は'もの'とあいまいに誤魔化した。こんな時間に電話をしても文句を言わない相手は、
「ちょうど池袋にいるよ☆うちに来る?」と別人のような声色で誘う。
「そうさせてもらう。今からいくからすぐだ。」
それだけいった西武池袋は、寝巻きを脱いでワイシャツを着る。青いコートに携帯と財布と鍵だけを突っ込んで肌寒
い外に出た。
まだ人の流れのある改札で職員に顔を見せると、「お疲れ様です。」と声をかけられたあとさらりと改札内に通され
た。疲れた顔をした職員に、普段ならば「これだから国鉄の職員は・・・」と愚痴の一つもいいたくなるところだが、西武
池袋も疲れているので今日はかすかにほほえむ返す。
「ごくろうさん。」
普段はせいぜいが会釈の西武池袋に声をかけられた職員はずいぶんと驚いたようだった。おそらくその出来事は近
いうちに路線たちにも伝わるだろう。山手の面倒な反応はさておいて、それは西武池袋にとってどうでもいいことだった
のですぐに忘れてしまった。
迷わずに歩いて関係者以外立ち入り禁止と書かれたドアを開けると、既に学ランのような上着を脱いだ山手がパソコ
ンで事務作業をしていた。
「おつかれ西武池袋。」
外回りが鬱々とした声で答える。その低く抑揚の無い声が西武池袋は嫌いでない。
「ごくろうだな、国鉄。」
室内にある簡易ベッドに腰掛けた西武池袋はコートを脱いで勝手にハンガーにかけた。スラックスとシャツも脱いでし
わにならないようにハンガーにかけ、下着一枚になる。
「寒くないのー?風邪ひいちゃうよー?」
今度は内回りがいきなりテンション高くしゃべる。同じ人間の声なのに、どうしてこうも一瞬で変えられるのか西武池袋
には不思議で仕方ない。
「寒い。だからベッドに入る。」
もぞもぞと布団に入り、背を向けた西武池袋の耳にため息が聞こえた。山手がかちかちとマウスを操作した後、パソ
コンが終了する音が聞こえた。かしゃかしゃと何かを動かす音が聞こえた。それはきっと内回り人形を定位置に置いた
音だろう。
「なにを見たんだ。」
しゅ、と布のすれる音が聞こえるので山手も着替えているらしい。さらに丸くなりながら西武池袋は山手がベッドに入り
やすいように壁際によって場所を空ける。
「さあ、なんだろう。」
「そんなことで来たのか?」
山手の声は落ち着いている。それでも機嫌が声に出ないタイプというわけではないので、顔は見えなくてもだいたいの
気分は察することができた。西武池袋が思うに別に気分を害したわけではなく、ただ聞いているだけのようだ。
「なんだかわからない、けれど確かに嫌なものなんだ。」
西武池袋はまったく素直に聞こえない答えを素直にいった。
「一人で眠ると、また見てしまう。」
「怖い夢か。」
布団に入ってきた山手は納得したようで、そうか、といいながら西武池袋を後ろから抱きしめる。
「肌が冷たい。ジャージいるか?」
山手は服を着ていて、さらさらとした素材が肌に気持ちいい。
「どっちでもいい。このままでいい。」
布地越しの体温は、直接触れる肌の感触よりも隔てている分悪いことをしている気分にならないと西武池袋は思う。
後ろから抱きしめて手を出さない山手を当然と思う反面、なぜとなじりたくなる思いも反面ある。
「おやすみ、西武池袋。」
寝る前の一言など、さすが国鉄とほめてやってもいい育ちのよさを山手は時折見せることがある。しがない貧乏私鉄
生まれの西武池袋には到達できない部分を山手(はもちろん埼京ですらも)持っていて、それが一瞬辛く思えるときが
ある。
けれどもう一瞬後には、会長を信望できないことはなんて可哀そうなのだろうと西武池袋は思うので、結局別段辛くは
ない。
山手の体は温かい。それに包まれたとき西武池袋はようやくぐっすりと眠ることができた。
('09.11.1)