か け ひ き
銀座×丸の内










 日比谷が書類を渡そうと銀座の机の前にたったとき、彼はいつものように「銀座」と声をかけようとしたのだが、気が
緩んでいたのか何なのか口をついて出たのは全く別の呼び方だった。
 「お父さん。先日頼まれた書類です。」
 「はーい、ありがとね。」
 銀座は普通に返していた。それどころか若干機嫌が良さそうだと目端の利く副都心などは思ったりしたのだ。だが、
その場に居合わせた路線はその会話の奇妙さに驚く顔を隠せず固まってしまった。
 「小学生が先生のことを『お母さん』って呼んじゃったり、とは聞くけど。」
 多くの路線が聞かなかったふりを決め込んだ中、南北は空気を読まずに発言した。それに、副都心があえて空気を
読まずに続ける。
 「でも、僕らに『お父さん』はいないでしょう?」
 お人好しの有楽町や東西がひやひやしてうろうろする中で日比谷も自分の発言に気付き、呆然とした後顔を真っ赤
にして早足で部屋を出た。
 「もう、みんながからかうから出ていっちゃったじゃない。」
 怒ってはいない、むしろ楽しげに銀座が南北と副都心を嗜める。
 「銀座さん、日比谷さんには父親がいたんですか?」
 副都心の質問は誰もが聞きたいことだった。何かを気にすることもなく質問をぶつけてくれる副都心と南北に期待して
他路線は口をつぐむ。
 「うーん、本当のお父さんじゃないけど、僕がみんなのお父さんだよ。」
 副都心が聞きたいのはそういったはぐらかすような答えじゃない。突っ込んだ質問を続けようとしたとき、唐突に丸の
内が話に割り込んだ。
 「それでお母さんは俺なんだぞ!」
 「そうそう、最近は路線が増えてきたからしていないけど、日比谷が生まれたときは僕がお父さんで丸の内がお母さん
で、家族みたいに暮らしていたんだよね。」
 にわかには信じがたい話に、南北が東西に確認するような視線を送った。自然、東西に視線が集まる。
 「や・・・俺は知らない!」
 「覚えてない?でもそうかも、東西が小さい頃に日比谷が恥ずかしがってやめちゃって、以来名前で呼ぶようになった
から。」
 銀座は楽しそうにカップに残っていた紅茶を飲み干すと立ち上がった。
 「どこに行くんだ?銀座。」
 「日比谷のところ。あんな昔のことをどうして急に思い出したのかわからないけれど、多分穴があったら飛び込みたい
くらいの気持ちでいるだろうからね。ちょっとお話しに。」
 「なら俺も一緒に行くんだぞ!お母さんだからな!」
 銀座に寄り添い立ち去る丸の内を呼び止めることもできず、後輩路線たちは事務所に残され、無言の間のあと騒々
しく憶測に花を咲かせたのだった。











 日比谷の建設計画を聞いたとき、誰よりも反対したのは銀座だった。
 「地下鉄は今求められている交通手段です。人口集中に伴い、今後地上は更なる混雑が予想されます。新線は耐久
 年数を上げ、長期使用を大前提とすべきです。」
 朗々と述べる銀座の声は落ち着いているのによく通り、全くの正論を嫌みなく話す様子に丸の内は惚れ惚れした。会
議で意見を放つ銀座はいつも堂にいった佇まいで、それを見るためなら丸の内はどんなに退屈な会議だって起きてい
られるのだ。
 「だがな、銀座・・・」
 役員の口から述べられるのはいつも同じだった。代わり映えしない言い訳はこれ以上なく退屈だった。
 「オリンピックに間に合わせなければならない」
 「そのために時間がない」
 丸の内は会議の中身になど興味はないのだが、拉致のあかない会話に苛立つ銀座を見るのが嫌だった。温厚に微
笑む仮面の下で、銀座はいま何を思っているのだろう。
 「都営も浅草を間に合わせるといっている。日本初の地下鉄を有する我々が遅れるわけにいかない。」
 一瞬、銀座の目元が細められ鋭く相手をにらんだのを丸の内は見た。けれど相手は答弁用の書類をめくるのに忙し
く気付いていない。
 「社内の会議なのですから、何もご存知でない貴方でなく担当者が答えればよろしいのでは?」
 久し振りにきく銀座の辛辣な物言いに、周りに緊張が走る。
 (この辺が潮時かな。)
 こうなることは用意に想像がついていたのだ。銀座の性格から、会社の体質から。
 「はいはーい。今日はこんなところで終わりにしよう!業務に戻らないといけないんだぞ!」
 凍った舞台を引き裂く丸の内の声が氷を溶かすように響き、裏切り者を睨みつける銀座と対照的に役員達があから
さまにほっとしたため息を漏らす。その視線を丸の内は一身に受けた。
 「丸の内。」
 銀座の声は冷え冷えとしていて、地下鉄道時代に若干戻っているように見えた。
 「戻ろう、銀座。」
 地上のオフィスは自分達がいる場所ではないのだ、丸の内は銀座の書類を抱え先に立って歩く。忌々しげに役員を
見た銀座は、それでも丸の内の後をついて席をたった。当然、冷ややかな視線を周囲にもう一度配るのを忘れずに。


 会議室を出て廊下を歩く間、銀座の苛立った空気を感じてすれ違う人間は誰も声をかけなかった。それが懸命な選
択だと丸の内は思った。
 無言のエレベーターを下り、ビルを出てようやく丸の内は銀座に声をかける。
 「銀座。」
 名前を呼んだだけでそれ以上特に言うべきことはない。銀座はなかなか口を開かなかったけれど地下に入ったあと、
 苛々と髪をかきあげてからあからさまに不機嫌に話し出した。
 「どうしてとめた、丸の内。」
 表情を作らない銀座は無表情の中に冷たさがあって丸の内は苦手だ。でもここで自分まで同じように振舞ってはにっ
ちもさっちもいかなくなる。つとめて明るく、いつものキャラクターで振る舞いながら丸の内は銀座をなだめ透かす言葉
を捜した。
 「えーと・・・。」
 うまい言葉が見当たらず、言葉が宙に浮く。
 「僕の気持ちは丸の内だって同じだろう!新しく生まれてくる後輩に、よりよい路線人生を用意してやりたい!先のこ
とはわからないからせめて生まれるときだけでも!それを!早川さんの理念を欠片も理解できないあの能無しども
が!」
 銀座の怒りはもっともだった。生まれてくる新線に、お前は先に生まれた路線よりも耐久年数がずっと少ないのだとい
いたくはない。その銀座の気持ちはわかる、わかるのだけれど。
 もうやめてくれと弱弱しい声を丸の内が漏らした。
 「なんで?丸の内だって許せないでしょう?僕らの新しい子が生まれてくるのに。それをあんな雑な工事で済まそうと
するなんて!」
 戦前、早川に愛されて作られた銀座は丸の内から見てもうらやましかった。東京にはムリだといわれた地下鉄を走ら
せた早川の愛情は、銀座のもつトンネルからも車両の凝った内装からもどこからでも見て取れた。これほど製作者に
愛された地下鉄は銀座のほかにはいない。そして、丸の内が生まれたときもう早川はいなかった。
 丸の内は早川を知らない。生まれたときから営団だった。
 「・・・あんな人たちでも、俺や、新しく生まれる日比谷の親なんだ。」
 銀座は顔をゆがめた。今にも泣きそうな、見捨てられた子供のような、崩れた顔をした。
 「みんなでうまくやれないかな?日比谷は東武との相互直通運転があるし、技術が進歩すればトンネルの補強工事だ
ってできるはずだ。もっと後から生まれる子たちも含めてみんなで・・・」
 欺瞞だとわかっていた丸の内の願いは銀座に通じた。銀座は怒りに顔を歪めてこぶしを握り締めた。
 「・・・わかってるんだよ、そんなこと。わかってるんだ。僕だけが・・・」
 早川の愛情に身をもって触れられた幸福を知る銀座がうらやましいと丸の内は思い、同じ親を持ち同じ環境に育つ
後輩を持てる丸の内がうらやましいと銀座は思う。
 (僕だけが、早川さんを知っている。)
 独占を喜ぶ醜い嫉妬心と公共心とがぶつかりあって銀座の中で冷たい泡のようにぷつぷつとはじけた。






 結局、日比谷がオリンピックに間に合ったのに対し浅草の工事は完了しなかったのだから無駄だったじゃないかと思
いつつ、生まれたばかりの日比谷がオリンピックのために生まれたことを無邪気に喜んでいたので、これはこれでよか
ったのだと銀座は納得した。
 日比谷は小さく幼い。路線は完成していても体も成長過程で経験も少なく、夜の暗闇におびえる。地下の暗闇におび
えないところはさすがに地下鉄だと誰もが賞賛した。
 「ね、丸の内。日比谷を僕らで育てない?」
 日比谷のためにタバコをやめた銀座が紅茶を飲みながら向かいに座る丸の内に上機嫌で話しかけた。
 「もう俺らで育てているぞ?」
 うとうととまどろむ幼い日比谷を抱きかかえた丸の内は起こさないように器用にマグカップをとった。
 「そうなんだけど、そうじゃなくって。僕らが両親役をするの!僕をお父さん、君をお母さんって呼んでもらって。本当の
 親子みたいに。教育上もいいと思わない?」
 素敵な夢を語る銀座の顔は紅潮して、いつも冷静に現実を判断する銀座からは想像できない興奮具合だった。
 「そうだな!いいとおもうんだぞ!」
 丸の内は日比谷のことが大好きで、それ以上に銀座のことが大好きだった。だから、銀座が喜ぶことならばなんだっ
てとても素敵なことだと思えた。
 「じゃあ、三人でいるときは君も僕のことをお父さんって呼んでね?僕もお母さんって呼ぶから。」
 「わかったぞ。」
 うとうとしていた日比谷が大きなあくびをして目を覚ましたので、ちょうどいいと銀座は丸の内の横にしゃがみこみ、日
比谷に目線を合わせた。
 「ね、日比谷。今日から僕のことをお父さんっていってね?」
 目をこすりながら子供は「銀座がお父さん?」と聞き返した。
 「うん、そうなの。僕がお父さんで丸の内がお母さん。日比谷も、お父さんとお母さんがいたほうが嬉しいでしょ?」
 乗客の子供連れを見ながら、母親に手を引かれる様をうらやましがっているのを銀座は知っていた。ならば、と思っ
たのも一つの理由ではあるのだ。思ったとおり、日比谷は顔を輝かせた。
 「はい!」
 銀座と丸の内は満足そうに顔を見合す。
 「じゃあ今日はお父さんとお母さんと三人で一緒に寝ようか。」
 銀座が丸の内から日比谷を受け取って抱きかかえると日比谷は嬉しそうにはい、と答えて銀座にしがみついた。
 その高い体温が銀座の腹の内側の目論見を見かすんではないかと恐ろしくなったが、銀座は日比谷を抱きしめ返し
た。
 偽りの、でも幸福な家族の短い時間の始まりだった。







 日比谷の部屋の前に着いた銀座は躊躇なくドアノブに手をかけた。当然鍵がかかっていたのでおとなしく手を下ろ
す。
 「日比谷、中にいる?」
 返事はない。
 「日比谷?」
 銀座の声には有無を言わさぬ迫力がある。ドアの向こうの日比谷にも伝わった。
 「・・・あの時、僕の両親だといったのは会社の偉い人たちから僕を奪って自分のサイドに入れたかったからでしょ
う?」
 愛情ではなかったのだと暗に責める日比谷の疑いを銀座は否定できない。真綿の温かい空気に隠した自分の打算
を幼い日比谷が察していたとしてもなんらおかしくはないのだ。
銀座の目論見を肌で知っていた丸の内は口を塞ぎ、銀座の出方を待った。銀座の対応は決まっている。
 「そんなわけないじゃない。」
 口からはすらすらと嘘が出る。至極全うな嘘で日比谷の不安と疑いを打ち消して、最後お父さんといってしまったこと
をフォローする言葉まで並べて銀座は日比谷をうまく丸め込んだあと、ドア越しの会話を終わらせて事務所に向かって
また歩き出した。
 「銀座。」
 心配そうな丸の内の声に、説明はなくとも何をいいたいのか銀座はわかる。夫婦ごっこをしていたころはまだ関係も
浅くて短くて饒舌に言葉を並べ立てなければ意思疎通を取れなかったのに、今では一言で大体を伝えられる。その関
係は銀座にとって非常に心地よかった。
 「僕はね、日比谷のことが大好きなんだ。丸の内のことももちろんだけど、東西も千代田も南北も半蔵門も有楽町も
副都心もみんなね。」
 「でも、好きになるまで僕にもいろいろあってね・・・君や日比谷には嫌なところを見せちゃったこともあったかもね。」
 銀座の独白は丸の内に重く響く。
 「今がよければ全て良しだぞ!」
 「それを言うなら終わりよければ全てよし、だけどね。うん、そうだね。丸の内は僕のフォローがうまいね。」
 「銀座はみんなのフォローをしているからな、俺は銀座のフォローをするんだぞ!」
 「ありがとう。なんだか、今ならどこまでだって行けちゃう気がするよ。」
 そういって、どこにもいけない第三軌条の二人は顔を合わせて笑い合った。























('10.1.14)