名前を呼びたかったのだけれど
西武池袋受
パラレル(西武池袋:サラリーマン)
冷え冷えとした夜だ。今日は会社が終わるのが早かったからそんなに遅くなかった西武池袋はスーパーで惣菜とビー
ルを買ってマンションに帰る途中、ポケットに手を突っ込んで満月には少し足りない月を見上げてゆったりと歩いていて
赤い塊を見つけた。
「!」
幽霊や妖怪のたぐいだと一緒思ったが、よく目を凝らせば透けてもおらず布の塊だとわかった。西武池袋はおそるお
そる近づく。汚れてもいないし派手なだけで普通のコートだったから、自分と同じようなサラリーマンが帰り道に倒れたと
かだと思ったのだ。
「大丈夫か?」
声に返事はない。いつもなら見捨てる可能性もあるし、せいぜい警察に電話するくらいだろうか。でも、給料日後で心
に余裕もあるし、なのに一人で帰る部屋は寂しいし、と西武池袋の人恋しさがちょうどいい感じに仏心になった夜だっ
た。
「おい、どうかしたか?」
頬を軽く叩くとコートを来て丸くなっていた男はのそりと動いた。
「あー、寝てましたか。」
「寝てた!?」
こんな寒いのに外で!?と西武池袋はおもいっきり驚いたのだが、男は意に介さずゆっくり立ち上がると頭を下げ
た。
「ありがうございました。一歩間違えば死んでました。」
淡々と冷静に自分の状況を判断するざまはそれはそれでおかしいのだけれど、特におかしくなさそうだったので西武
池袋は大丈夫だろうと判断し、勢いよく立ち上がった。
「ならいい。気をつけて帰れ。」
ひらひらと手を振って立ち去る西武池袋は振り向かずに立ち去る。面倒に巻き込まれたくないというよりも、たいした
ことなかったのならその場にい続ける必要もないし、冷淡というよりは淡白に帰ろうとしたのだ。
足音の目立つ西武池袋の革靴の音が夜に響いて、その中に歩調の違う足音が混じっているのに気付いたのは100m
も歩いたときだった。何気なく振り向くと、後ろには先ほどの赤いコートの男がたっていた。
「同じ方向か?」
あとをつけらた、と思ったけれど、もしかしたら単純に帰宅する方向が同じ方面なのかと気を使ってきいた西武池袋
の答えは平坦なイントネーションの淡々とした声で打ち消された。
「いいえ、私の家はもっと遠くにあったので。」
妙な言い方だな、と西武池袋は気付いた。
「帰るところがないんです。」
天気の話でもするかのように淡々といわれて、西武池袋は戸惑った。
「・・・で、私にどうしろと。」
「ご自宅に、泊めて頂けませんか?」
「あのなぁ・・・危ないだろう・・・」
「ええ、何度か危ない目に遭いました。でも、あなたはいい人そうなので。」
「金髪スーツのサラリーマンがいい人?」
西武池袋は嫌味っぽくいった。泊める気など毛頭ないのだが、できるだけ直接的には断りたくなかったので、向こうが
引いてくれるのを祈った。
「あなたはいい人です。」
「なんで断言する?」
「その理由については、お茶でも飲みながら話ませんか?」
200mほど先のカフェを指して言われた首を振った。話を聞くのが嫌なのではない、あのカフェは女性客だらけで男二
人で行くのは気が引けてしまうのだ。
「公園でビールはどうだ?」
スーパーの袋に入ったビールと惣菜を軽くあげると、「寒いです。」と断られた。
「わがままだなぁ。」
「泊めてくれなくてもいいですから、とりあえずあなたの家に上げてもらえませんか?」
「嫌だ。そもそも話す必要もないしな。かえる。」
再び歩き出した西武池袋の後を、先ほどと同じように男はついてくる。
「・・・」
「・・・」
歩調は違うけれど、距離は変わらない。足音からそれはわかっていたので、西武池袋は角で立ち止まってから勢いよ
くふりむいた。
「なんなんだ貴様は!」
「ですから、帰る家がないのです。」
変わらない淡々とした声に西武池袋は脱力した。
「・・・あーもういい、何かの縁だ。泊めてやる!一泊だけだからな!」
自分でも何を言っているんだろう、と西武池袋は思った。けれど、上物のコートを着た男は公務員っぽい風情で、少な
くとも悪事を働くようにみえなかったのだ。そういう人の方が悪いことをすると、そこそこ生きてきた人生の中で十分経験
していたはずだけれど、西武池袋はその男を信じてみることにした。いや、信じるなんて大層なものではない、ただ、家
にあげてみてもいいやと、柔らかい剛力に負けてしまっただけなのだ。
「ありがとうございます。」
喜んでるんだか感謝してるんだかよくわからない、気の無い返事に西武池袋は眉をひそめたのだが、男は気にせず
無表情を貫いている。
「・・・明日が土曜じゃなかったらこんな酔狂言わなかったぞ。」
一人の金曜の夜は寂しい。自分にもそんな気持ちが残っていたことにいまさらながら西武池袋は男に背を向けて笑っ
た。
新しくもないけれどとんでもなく古いわけではない、一人暮らしにはちょっと広い2DKのアパートの一室に男を通して座
布団をすすめた西武池袋は、先ほどコンビニで買ったばかりのビールを開けてグラス二つにそそいだ。
「どうぞ。」
「いいんですか?」
「二つグラスがあるんだから当然だろうが。」
「はい、ありがとうございます。」
かつんとグラスをあわせて乾杯、といい西武池袋は一気にグラスをあけた。
「結構飲まれるんですか?」
「そこそこ。」
手酌で注ごうとしたら男が缶をとって西武池袋のグラスに注いだ。
「久しぶりに飲みました。ビールって、美味しいですねえ。」
「つまみも用意しようか。」
西武池袋はその男にいろいろと質問をしたかった。腹をくくって家にあげてしまえばもう開き直ってしまって、非日常を
もたらした男のいろいろを聞いてみたいと思ったのだ。
「あ、何か作りましょうか。お台所お借りします。」
「いや、客人にそんなことさせるわけにはいかんし、台所に何があるのかわからんだろうが。」
「確かに、わかりませんでした。では、お手伝いします。」
男はコートの下にスーツを着ていた。マゼンダのラインが入ったシャツは地味そうな眼鏡の男には派手だったので、
制服か何かなのだろうと西武池袋は思い、それ以上深く気にしなかった。
男の料理は美味しかった。ビールに日本酒を開けて焼酎も飲み家中の酒を開けてしまうと料理酒さえ飲んだ。男は
思ったよりも話し上手で、西武池袋の愚痴を上手に聞きだしながらタイミングよく酒を注ぎ静かな声と外見と口調に同
様静かに飲み、けれど場を楽しくすることに長けていた。
酔っ払った体でなんとか客人用の布団を引っ張り出した西武池袋は自分のベッドの横にそれをひいた。警戒心の強
い彼にしては珍しく、心の底から楽しくお酒を飲んで今日あったばかりの他人に対しすっかり警戒心を解いてしまってい
た。
「これで、ねろ。」
「ありがとうございます。」
世界が大回転している西武池袋はもう男が布団に入るところを確認すると貴重品を身の回りに置くとか、そんなこと
はもう考えられなかった。とにかくベッドが恋しくて仕方なかった。
ぼんやりと目が覚めたとき、西武池袋は自分がどこにいるのかわからなかった。それはふわふわとした非現実的な
感覚で西武池袋はそれが好きだった。ほんの数秒で自宅とわかってしまうまでの足が付かない、泡沫の感覚。
カーテンの隙間からさす日差しは西武池袋のいつもの休日の朝だった。寝返りを打てば我慢できなくも無いけれど、そ
ろそろおきた方が良いであろう強い日差しだ。
ベッドから降りたとき柔らかいものを踏んだので西武池袋はねぼけ眼で床をみた。しいた覚えのない布団があって首
を傾げる。昨夜は何をしただろうか、若干二日酔いで頭が痛い。
西武池袋が記憶を巻き戻す前に、台所から男が顔を出した。
「おはようございます。ご気分はいかがですか?」
「は・・・?」
「差し出がましいと思いましたが、朝食をご用意しました。スープなら胃に入ると思いまして。」
「・・・あぁ、そうか。昨日は貴様と飲んだんだ・・・。」
ダイニングテーブルにふらふらしながらついた西武池袋の前に、いつ買ったんだか忘れたコンソメの素と冷蔵庫の残
り物の野菜で作ったというスープが置かれた。
「勝手にご飯も炊かせて頂きました。おにぎりでしたらすぐに作れます。」
スープを一口含む。市販のコンソメの味といってしまえばそれまでだが、このところ自炊をしていなかった西武池袋の
体によくしみた。
「夕飯は何にしますか?わりとなんでも作れますよ。」
背筋を伸ばして西武池袋の向かいに座った男は、ずっと前からこの家にいたような顔で平然といった。
二日酔いで気持ち悪い西武池袋は男をまっすぐ見れなかった。スープが美味しかったから、夕飯も作ってもらっちゃ
おうかなと思ったりした。
「・・・ハンバーグ。」
「わかりました。」
男は、具合が悪くて口数の少ない西武池袋に合わせて口数が少なかった。男は西武池袋の背にある窓の向こうを見
ている。向かいには似たような作りのアパートがあったはずで、面白い景色は広がっていないはずだ。西武池袋はその
視線の先が気になって振り向いたが、何も無かった。
スープをゆっくりと時間をかけて食べ終えた西武池袋は「ごちそうさま」と軽く礼をいって席を立ち、またベッドに横にな
る。今部屋の中はアルコールの匂いと、二日酔い特有の変質したアルコールの匂いとが充満していて不快だが、体を
暖かく包み込んでいる気がする。だめな一日を擁護するように。
男がキッチンで洗い物をする水音が聞こえて、西武池袋はずいぶん前に出た実家の母親の背中を思い出した。
ふたたび目が覚めると時計は昼食の時間を過ぎていた。掃除機の音が耳について目が覚めたのだとすぐに気付く。
「・・・おい。」
「すみません。起こしてしまいましたか。」
「掃除なんてしなくていい。」
「でも、お邪魔してますから。」
「いい。暇ならそこの本棚から好きなものを読んでいいから。私は具合が悪いから寝かせてもらう。」
「あ、はい。」
男が本棚に目をやる。本棚の似合う眼鏡をかけた男だと西武池袋は思った。
「夕飯まで時間があるので、少し本を読ませて頂きます。」
「そうしてくれ。掃除とか洗濯は目が覚める。」
男はにこりと笑ってすぐに本棚をむいた。本棚には西武池袋の興味のある本ばかりがならんでいる。仕事関係の本
が多いが、小説や自然科学なんかの本もそれなりにあり、退屈はしないだろうとふんで西武池袋はカーテンをしめきっ
た寝室でまた丸くなる。眠りに落ちる直前にページをめくる紙の音がした。小さな落ち着く音だった。
2時間ほど眠ってようやく二日酔いが治った西武池袋は大きく伸びを一つしてから隣の部屋にはいった。昼よりも色
の濃い日差しが差し込む部屋で男は背筋をぴんと伸ばし本を読んでいた。一瞬息を呑む、美しさと迫力。
「・・・おい。」
その空気を破って西武池袋は声をかけた。すぐに男は振り向く。
「あ、はい。すみません、読みふけっていました。」
男は軽く頭を下げた。すみません、というときゆっくりと頭を下げる男だと西武池袋はそのとき気付いた。穏やかな物
腰だ。
「買い物、行くか。今家にほとんど何も無いからな、いろいろ買出ししたいし、車でいくぞ。」
「はい。お供します。」
車で行ったショッピングセンターに入っている大型スーパーは大概のものが揃う。西武池袋が押すカートの中に、男
はいろいろといれていった。西武池袋ならめったに買わないような、下ごしらえが面倒くさい野菜もたくさん入った。
「西武池袋さんは甘いもの、お好きですか?」
「うーん、人並み?」
「アイスも買っていただけませんか?これ、好きなんです。」
男が淡々と差し出したのは、昔懐かしいバニラアイスが6本入った箱だった。
「それ、昔よく食べたなぁ。」
少し西武池袋の声が上ずった。
「美味しいですよね。」
少し男の声を楽しそうに弾んだ。本当に、少しだけ。
「家の冷凍庫にアイスが入っていると幸せな気持ちになります。」
男は西武池袋に同意を求めていなかった。ぽつりと吐露した心情に西武池袋はなんとも返しにくくて、冷凍のグラタン
を見て会話をそらしたのだった。
夕食を済ませてまた夜が来て、当然のように二人は布団にもぐりこんだ。西武池袋は気になっていたことを男に聞い
た。
「なんであそこでうずくまってたんだ?理由によっては家が見つかるまでうちにいてもいいぞ。」
自分でもこんな言葉が出てくるなんて不思議だった、男は始終穏やかで家事が上手で、同居する上で何の不満もな
いように思えた。なにも安心すべき材料など知りもしないというのに、安心させるだけのものが男の身のこなしにあっ
た。
「そうですねぇ。どこからどこまでお話したらいいものか。」
「話せるところだけでいい。」
「実は恋人に振られて家を追い出されてしまったんです。少し前に仕事をやめて無職になっていたものですからあても
なく。」
「友人の家とかは。」
「私はもともとこちらの人間ではないんです。恋人にくっついて地元を飛び出てこちらにきました。帰るにもお金のかか
る遠いところに実家はあります。」
男の血管が透き通って見えるほど色と皮膚の薄さから、西武池袋は勝手に北の出身だと思った。自分で思い浮かべ
たイメージの美しさを気に入った西武池袋はイメージを壊さぬために男に詳細な故郷を聞かなかった。男もまた、聞か
れたくないようだった。
「それで、どうしようかなぁ、としゃがみこんでたら貴方が声をかけて下さったんです。きっと、この後あなた以上の人に
声をかけられることはないだろうと思って無理やりついてきました。」
「はあ。」
「あなたはものすごくタイプなんです。」
「へ?」
西武池袋は初めて聞く自分の間抜けな声に驚いた。
「一目ぼれでした。」
男は天気の話しをするように身の上話をして、市役所の窓口係が手数料を受け取るように告白をした。
西武池袋はなんのことだかよくわからなくて頭を抱える。今日も良く冷える。男の作った夕飯のハンバーグは実家の
味とは違うが美味しかった。羽毛布団をかければ、隙間風のあるアパートでもそれなりに暖かい。万事快調?
「その・・・私は・・・ゲイではないんだが。」
西武池袋がいえたのはそれだけで。元来同性愛者に対し差別はないが、それは身の回りにいなかったからともいえ
る。遠い異国の話のようだったのだ。
「そうなんですか?私を拾ってくださったのでてっきりそうなのかと思ってました。」
恐ろしいほど口調が変わらない男は寝返りを打ったようで布団のずれる音がした。一瞬、体をこわばらせてしまう自
分を恥じて、西武池袋は仰向け状態から体を動かさなかった。
目の端で男が体を起こして西武池袋のベッドに乗る。それを、西武池袋は透明な膜を一枚隔てた向こう側のように見
ていた。体は恐怖のようななんともいえないものに犯されているのだが、どこか他人事のように見える。
男は布団の上から跨って西武池袋の首筋にキスした。冷たい唇が蝋のようだった。
「痛いことはしませんから。・・・今日は。」
そういえば男同士なら男役と女役があるのだと西武池袋は想像をようやくそこまで及ばせた。柔らかい顔立ちをした
この男が女役ではないのだろうか、と西武池袋は思うのだがそこは当事者同士でいろいろあるのだろうなと考えた。そ
して西武池袋は未知の世界に住む男に対し、怯えや恐怖や未知であることの恥ずかしさといった、つまりは童貞の有
する感情でもって、現状を一歩ひいてみているのだと気付いた。もしくは他人の目で見ている。つまり強がり。
「『嫌』っていわないと続けますよ。」
男の指先は冷たいが細くて長くて、女性の好きそうな指をしていた。しかし、彼らの世界ではモテる指なんだろうか?
西武池袋は、自分の中で自信のあるパーツである自分の指を思い出しながら男の指をみた。布団をめくってするりと
中にもぐりこみ、西武池袋の下半身のほうへ体を移動させる。フェラチオされるのだろう、と予想はつくのだが抵抗でき
なかった。男と至近距離で感じる体温は西武池袋を麻痺させるようにぼんやりさせた。
初めての相手と肌を合わせるときの感覚を思い出す。行為自体は初めてでなくても相手が替わるだけで新鮮な感覚
が湧き上がる。あのときと同じだ。
下着が下ろされて男の手が性器に触れる。柔らかくしごく手はごつごつとした男の手だ。直接は見えないのだが、先
ほど見た女好きしそうな指が自分の性器をしごく様子を想像したら背中がぞくぞくとした。子供の頃初めての場所を探
検するべく棒切れ一つもって山をかけたときのようだ。
男の舌がちろちろと亀頭を舐める感触に西武池袋の体は跳ねた。性行為は久しぶりなのだ。手はごつごつしていて
も、舌や口の中は女の子と変わらない。それが奇妙だった。小さくて可愛くてふわふわしてそれでいて強かな愛すべき
存在と、この得体のしれない男の共通点が粘膜にあることがおかしい。
そこで西武池袋は今までに付き合ったり関係をもった女の子達のグロスで光った唇やファンデーションの匂いを思い
出そうとしたのだけれど、誰一人思い浮かべられなかった。
男は床上手で、西武池袋は挿入されなかったから体が辛くなかったということもあるが、毎晩の行為に次第に慣れ
た。男は料理も上手で西武池袋は朝食、昼のお弁当、夕食と男の手作り料理を食べた。男はお金を渡しておけば良識
的な範囲で買い物をし、シャンプーを詰め替えてくれた。
西武池袋は男との生活に安住していた。休みになれば二人ででかけた。男の服や生活用品を買いに行くことが多か
った。男と西武池袋は並んで歩けば友人にしか見えなかった。まさか、毎晩フェラチオされていると誰が考えようか。
たまに二人で公園に散歩にいき橋の上から池の鯉にパンをやった。
「ぴちぴち跳ねて、おいしそうですねぇ。」
あまり食べ物に執着しているとも思えない男のあんまりな台詞に西武池袋はぎょっとして男の横顔を見た。
「きっとこういうところでパンとかお菓子とか食べてる鯉はいまいちでしょうけど。昔、鯉を食べる習慣のある地域の方
とよく食事をしまして。」
西武池袋は胸の奥が少しちりりとしたことに気付いてそれをもっと奥に押し込む。
鯉を「おいしそう」といったその視線の先をみて、それから西武池袋よりも鯉が跳ねる様子に気をとられている男のメ
ガネのつるをみて、昔のことなんてどうでもいいと思いなおして聞かなかった。男は西武池袋が家に帰ると必ずいたし、
遠くに離れることもなかったから。
「そろそろ帰るか。」
パンもなくなったし指先がかじかむから、というと男はそうですねと同意してどちらともなく自然に歩き出す。冬の公園
には葉が落ちきった木が整列していて、細い枝が青い空に伸びている単純な二色のコントラストが綺麗だ。西武池袋
はこの景色を忘れないだろと思った。たくさんのことを忘れながら生きているけれど、今ふとそのことを自覚したので、
このなんてことのない景色を忘れないようにしようと思い立ったのだ。
風が吹いて寒くても二人は手を繋がない。ポケットに入れた手は温かかった。
男がきてから、西武池袋は朝食を食べるようになった。今まで良くてトーストだったのが、目玉焼きやサラダ味噌汁が
付くようになった。それに、男はアイロンがけもうまかったのでクリーニング屋に行くこともなくなった。帰ってくれば夕食
は温めるだけになっていてすぐに食べられるし、お風呂も既に沸いていた。それになにより、帰ってくると部屋が明るか
った。
男は西武池袋のわがままをなんでも受け入れた。あまりに際限なく受け入れるものだから西武池袋が途中で遠慮す
るほどだった。
男はときおり西武池袋を抱いたけれど、西武池袋は次第にその行為にも慣れていって、すっかりほぐされた穴は男
が望むままに男を受け入れた。男は西武池袋をこの上なく大切に抱いたから、西武池袋は抱かれることにもう抵抗す
ることもなかった。暖かい布団ともはや気持ちいいと感じるようになった行為はセットになっていて、この一連の幸福の
一部に組み込まれていた。
西武池袋は男が求めれば時折答えて口淫もした。歯を立てずに性器を舐める技が次第にうまくなっていっていると会
社でパソコンに向かっているときにふと気付いて猛烈に叫びだしたくなったこともある。けれど、ひとたび家に帰ってしま
えば西武池袋は男のてのひらの中で思考を奪われて幸せでいられた。
西武池袋は男の素性を何も知らなかったけれど、居候に過去を問うのは自分の心の狭さを見せてしまうようでプライ
ドが許さなかった。男はスーパーへの買い物など西武池袋のために必要な最小限の外出を除けばほとんど家から出な
かったし、西武池袋が家にいるときは必ず一緒にいた。手を伸ばせばわかるところにいつもいた。
ある日、西武池袋はいつものように会社から帰ってきた。
「ただいま。」
部屋は電気がついていて、いつものように玄関まで夕食の匂いが漂っている。
「今日の夕食はなんだ?」
西武池袋は急に怖くなった。いつもなら『おかえりなさい。』と声をかけてくるはずの男の声が聞こえない。
「・・・おい!」
西武池袋の声だけが虚しく響く。慌てて靴を脱いだ西武池袋は足音荒く部屋に入って見回した。障子やドアはどこも
開いているけれど、部屋の中に男は見えない。
(買い忘れたものでもあって出かけたのだろう。)
心臓が、初プレゼンの前だってこんなにはならなかったというほど大きく震えているのを感じて西武池袋が足をすくま
せる。トイレや風呂場も確認したが、どこにも男は見当たらなかった。
「おい!本当にいないのか!?」
家中探したのだからいるわけがないと思っても、西武池袋は呼びかけずにいられなかった。
そして西武池袋は、名前を呼びたいのに男の名前を知らないことを知る。
男の料理も体を、一緒に暮らした間のことをなんでも覚えているのに、男の名前だけ知らなかった。
「・・・おい・・・」
西武池袋はもうどうしようもなくなってその場にへたりこんだ。
男はどこかへいってしまったのだ。置手紙があるわけでもないけれど、部屋の空気がいつもと違っていた。クローゼッ
トを見れば、男が着てきたスーツとコートがなくなっていた。
西武池袋の買った服は綺麗に押入れにしまわれていたから、それらは残していったのだといわれなくてもわかった。
男は何も取らず何も残さず、忽然と消えた。
何をしていたのか、会社にいっていつものように仕事はしていたのだけれど、それ以外よくわからないぼんやりとした
数日を越えて、西武池袋はいなくなってしまった人を忘れようと部屋の片付けを始めた。西武池袋が彼に買った洋服や
雑貨類は結構な量があって、自分が彼をどれだけ大切に思っていたのか突き付けられて耐えきれなくなる。
ある日曜日、ショッピングセンターで男二人マグカップを探した。好みが違うので全く違うデザインの、大きさも違うマ
グカップを2つ買った。似てもにつかぬカップだけど、お揃いのカップだった。あの男の分を捨てようとして、いやもう割っ
て跡形もなくしてしまおうとして、西武池袋には出来なかった。目につかないよう白い紙に包み戸棚の奥深くにしまう。自
分のも同様にしまった。
そのとき西武池袋は、男がいつも自分を『西武池袋』と名前で呼んでいたことを思い出した。あの抑揚のない声で呼
ばれると仕事で疲れていても辛くても気持ちがフラットになったのだった。男が大切にしてくれたことに何も返していなか
ったこともわかった、西武池袋はマグカップをぎゅっとにぎった。
割れないように、力をこめてぎゅっとにぎった。
季節はもう冬が終わって春になった。男が着ていったコートはもう不要になっただろう、野宿ももう辛くはあるまいと、
西武池袋はありとあらゆるときにおいて男を思った。本人も驚くほどに、男は巧妙に西武池袋の心に踏み込んで独占し
ていた。
そんなわけでぼんやりとしていたから、ドアホンがなっても西武池袋に出る気はなかった。なにかとやかましい実家の
兄弟達から何か送るなどとは聞いていないし、そうでないなら出る必要などないのだから。無視を決め込み布団に丸ま
っておぼろになりゆく記憶を暖めていると、無粋なドアホンはまだ鳴る。規則的に丁寧に。
間を開けてから控えめにドアが叩かれた。押し売りや勧誘の類いではなさそうな雰囲気に西武池袋はようやく布団か
ら頭を出して外の様子を伺う。ドアの向こうに人の気配があった。
「あのー・・・私です。」
控えめ、というより抑揚がなく単調な声が聞こえて、西武池袋は寝間着代わりのジャージであることも構わずに、転げ
そうな勢いでドアに向かい、震えてうまく動かない指でガチャガチャと何度も失敗してからドアを開けた。
「お久しぶりです。」
あんな別れを全く感じさせずに淡々と挨拶する男に、西武池袋は身体中の力が抜けてしまってその場にへたりこん
だ。
「・・・心配したんだぞ!!急にいなくなるから!」
自分でも驚くほど大きな声を腹のそこから出したあと、西武池袋はその場でポロポロと泣き始めた。滴の涙は次第に
大粒になり、嗚咽も混じるようになって、最後は声をあげて泣いた。
「すみません。最後にあなたにあったら覚悟が揺らいでしまいそうだったので。」
男はしゃがんで目線を西武池袋と合わせてから、ゆっくりと抱きしめた。
「でも、ひとついい忘れていたことがあったので、暇をもらってまたきてしまいました。」
抱きしめられても急には涙がひっこまない西武池袋は男の袖を涙で濡らす。
「私の名前は大江戸というんです。」
「わたっ・・・な・・・・・・っ・・・なまっ・・・」
「すみません、よく考えたら名乗ってなかったのですけど、尋ねなかったあなたもあなたですよ。」
淡々と変わらない大江戸はやさしく西武池袋の背をさすった。
「おっ、お・・・え、どっ」
「いい名前でしょう?」
「お、おっえどっ」
「はい。」
「大江戸!」
西武池袋が強く抱きつくと大江戸は柔らかく抱きしめ返して、それからいともたやすく西武池袋を抱き上げると勝手知
ったる部屋に入った。
「あんまりあなたが優しいから、あなたに捨てられるのが怖くなって逃げたんです。」
いつも抑揚がなく淡々とした大江戸に似つかわしくない、情とか欲とかといった人間らしい、理解しがたく愚かな理由
に、西武池袋はおかしくなって笑った。ぐちゃぐちゃな泣き顔のままで笑った。
「でもいいんです。もう覚悟してきましたから。あなたを知ったらもう離れて生きて行けないです。」
大江戸がゆっくりとキスをしてきたので、西武池袋は大江戸の背に手を回して受け入れる意思を示した。
「・・・私とて、いまさら貴様なしで生活できるわけなかろう。」
西武池袋は家事の面で、と付け加えようとしたのだが、大江戸があんまり嬉しそうに、見たこともないほど顔を崩して
喜ぶものだから、一生に一度だぞと思いつつ気を使って口を閉じた。その口にもう一度唇が近づく。
西武池袋は、もう大江戸がどこかにいってしまわないように強く強く抱きしめた。
(2010.2.21 トップページには注意書きの意味も含めてカップリングを明記しましたが・・・
ラストで大江戸でした!大江戸みたいな真面目そうな男がふらりと現れてふらりと消えるギャップがいいと勝手に思ってます。)