秩父鉄道のことが好きだった。恋のようだと周りの路線にからかわれたけれど、兄のように慕っていたのだ。一緒に いられたら嬉しいし、合同企画が成功して二人で喜びをわかちあったときなんて暴れだしたいほど嬉しかった。同じ路 線を走れることも嬉しい。彼がいてくれればどんなときも嬉しかった。恋に近いけれど、性的欲求は伴わなかったから恋 とは違うと思うんだ。 うわさを耳にしたことはあった。 『秩父鉄道と西武秩父線が相互直通運転を開始する。』 根も葉もないうわさだと思った。西武秩父の親玉の西武池袋は大嫌いだったが、付き合いも長いし、俺から秩父鉄道 を奪うような奴ではないと信じていたのだ。後でそれはかいかぶりだったのだと分かるのだけれど。 「わりいな。」 笑ってさよならを言う秩父鉄道を罵ることなんて出来なかった。この人はこんなときまで爽やかに軽く去っていく。たい したことなんてなかったかのように。 本当は秩父鉄道に怒ればいいとわかっていた。その場で声を荒げて非礼をあげつらって渦巻く感情を秩父鉄道にぶ つけられなければ、その後複雑な感情が心中に取り残されて汚いものになってしまって苦しむのだと頭ではわかってい たのに、大好きな秩父鉄道を前にしては何もいえなくなってしまう。 「そう、か。」 そう答えるので精一杯だった。 「それでもまた、一緒に合同企画とかしてくれる?」 なんでそんな下手に出るのだ。俺は池袋まで行く通勤路線で観光路線とは違うし、大手私鉄の一員だし、秩父鉄道よ りは稼いでいでる。そんな醜い台詞が浮かんで、大好きな秩父鉄道にそんなことを思ってしまうことに涙がでそうになっ た。 「ああ、もちろん!またやろうな!」 秩父鉄道は別れ際すらも明るくて優しくて、東上は出そうになった涙を根性で押しとどめた。 「じゃあね。」 「またな!」 手を振って立ち去る秩父鉄道に、張り付いた笑顔で手を振り、秩父鉄道の姿が遠く見えなくなってから東上は近くに あった木を力任せに殴った。 「・・・いっーてぇ・・・」 拳は痛かったけれど、痛みでも抑えきれない怒りがふつふつと沸いてきて体を押さえられない。ぶつぶつと呪詛の言 葉を紡ぎながらひとまず事務所に戻ることにした。そのときはまだ西武池袋を殴りにいこうとかそこまで考えがまとまっ ていなくて、本線の連中からいろいろ言われるための会議も開かれるだろうしダイヤも変更しなくちゃいけないし、仕事 のことで頭が一杯だった。 そのとき、捨てられたことを直視させられる毎日が嫌で嫌で仕方なかったけれど、仕事に追われているうちは余裕が なくて何も考えなかったから辛くはなかった。相互直通運転をやめてもあえなくなるわけではないし、相変わらず接続は している。車両の輸送も行う。完全なさよならではないから、絶望ばかりではなかった。そのときは、最低限の繋がりだ けでも救われた、そのときは。 毎日は回っていく。秩父鉄道が自分と直通しているときよりも調子良さそうに走っているのを見ると東上の胸は締め 付けられた。苦しくて辛くて吐きそうになったこともある。それでも東上の体は走ることをやめないし、毎日は変わらな い。秩父鉄道の態度もかわらない。ただ、よく見ているうちに秩父鉄道と西武秩父の中がいいことはわかった。それが どういうことなのかわからないほど愚かではなかった。恋ではない、とそのつもりだったけれど、秩父鉄道の横に友達で は近寄れない距離まで並ぶ西武秩父に憎悪が風のように胸をよぎっていった。 (西武池袋が悪い。) 東上から見て西武秩父は悪い青年ではなかった。直接会長を知らないこともあって、東上に会長はどんな人だったか と尋ねてきたこともあった。東上はいいようにいわなかったけれど、それでも西武秩父は嬉しそうに聞いていた。笑顔を 絶やさない、電波度の低い男だったから東上はあまりに憎めない。だから、簡単に憎める西武池袋に憎悪が流れてい く。 それから、余計東上は西武池袋を避けた。もともと嫌いなのに、今では同じ駅の空気を吸うのも嫌で、東上はできる だけ池袋駅自体を避けたし、ホームから絶対に出ないようになった。ときどき西武秩父に合うことはあったけれど、西 武池袋を悪し様に罵っても慣れている西武秩父は驚かず聞き流す。西武秩父は秩父鉄道のことを絶対にに口にせ ず、むしろ西武池袋や西武新宿のことを話した。だから、東上はなんとか西武秩父とギリギリのところでコミュニケーシ ョンをとることができた。そういっても、もとから滅多に顔を合わせることはなかったけれど。 「この間、西武池袋が最近東上を見ない、って話してたよ。」 ある日、秩父鉄道と一緒にいた西武秩父はのんびりとした口調でそういった。穏やかな雰囲気は西武というより秩父 鉄道に似ている。それはきっと沿線環境が似ているからだろうけれど、それがうらやましかった。むしろ、似たもの同士 うまくいくはずがないと呪った。 「は?なんで。アイツに用事はねえ。」 思いっきり不機嫌そうに言い放つと、秩父鉄道が大きな声で笑った。 「喧嘩するほど仲がいいってなぁ!」 「なっ・・・違うよ秩父鉄道!僕はね・・・」 言い訳を羅列する間、西武秩父が苦笑するのが見えた、その顔といったら。西武秩父が秩父鉄道に似ているなんて やっぱり大嘘だ。撤回。西武池袋にやっぱり似ていた。特に、苦笑するときの口元が武蔵野鉄道にそっくり。 ある日、東上が明日の始発に備えてたまたま川越で終電を迎えた日、終業後業務を終えて宿舎に行こうとしたら、目 立つ青いコートの男が立っていた。時折見かける西武新宿で無いことは夜でも背格好から一目でわかった。 「遅くまでご苦労だな、貧乏路線。」 東上は露骨に嫌な顔をする、なんだって川越でこいつに会わなければならないのか。西武新宿は一人のときは比較 的まともな人間だったから川越で仕事の付き合いで会うのは何も支障ない。ただし、西武池袋は一人でも電波なのだ、 むしろ悪化する。 片目を隠す前髪をはっきりと認識したとき、東上の理性は体を押さえられなかった。体は勝手に西武池袋に殴りかか る。溜め込んでものが一気にあふれ出た。それは目に見えないドーパミンとかアドレナリンとかそういう名前のものだろ うが、東上はその瞬間それらがリットル単位で大量に体内を流れて自分を突き動かしているかのように感じた。 ずっと体の中に押さえていた叫びが咽喉をするりと過ぎ去る。思ったよりも大きな叫びは夜にこだました。 「なんで俺から秩父鉄道を奪ったんだ!」 一撃は受け止めた西武池袋だが、圧倒的に力が強い東上の腕に屈して転がった。そのとき東上の理性が戻り、馬乗 りにならずに一歩ひいた。引かなければ西武池袋がボロボロになるまで殴ってしまいそうだった。それが明日の朝どの ような影響を及ぼすか考えられないバカではないことが、東上の苛立ちを体の内に逆流させて噴出を抑えた。 立ち上がってコートの誇りを優雅な仕草で払った西武池袋は大きく息を吸う。軽く開いた薄い唇の造作に東上は目を 奪われる。あれほど憎い男なのに。 「企業価値の差だ。お前はいつまで子供のようなことを言っている。あれとてお客様の利便性を向上させるためには よりよい路線と直通しなければならない。それが、うちの西武秩父が選ばれた理由だろう。」 演説するように、ぬけぬけといってみせる西武池袋に余計東上は腹を立てた。薄い唇が紡ぐ耳障りが最悪な言葉の 数々は東上の頭に突き刺さる。 「だからって・・・!」 西武秩父を使って!と続けようとした東上の台詞は簡単に西武池袋にさえぎられた。 「勘違いするな。お前は恋人を寝取られたわけではない。企業価値を高める努力を怠り、協力関係にある他社を失っ ただけなのだ。お前が求めているものは、私が得た秩父鉄道ではなかろう。」 西武池袋は楽しそうににんまりと笑う。街頭の少ない田舎の夜空は星が綺麗で、でも暗くて、西武池袋の青いコート は黒よりもどろりと夜に溶け込んでいた。 「あっはっは!バカだな東上鉄道!」 楽しくて楽しくて仕方ないといった風情で東上を嘲る。こらえていたものを一気に押し流すように盛大に笑った。わざとら しい笑い声は物悲しくもある。 「欲しい物は欲しいといわなくては!誰もくれなかっただろう!」 西武池袋の大きな身振り手振りは舞台役者のように観客を魅了する。たった一人の観客である東上は西武池袋のし なやかな体やぴんと伸ばされた指先に視線を囚われた。西武池袋は悪い言葉ばかり呪うように叫ぶと知っていても東 上は西武池袋の声を遮れない。 「あの頃のように、戦中戦後のあの頃のように!誰これ構わず奪ってみせろ!そのくらいの気概がなくては貴様の路 線は立て直せんぞ!」 西武池袋は愉しんでいた。上場廃止になったって西武池袋は大手私鉄西武鉄道の主線格として発言力を持っている が、東上鉄道は本線の名を冠するものの東武の中で小さくなって生きている。その違い、その差。その昔一年先輩とし て開業した東上の大きな背中を思い出すと愉悦がたまらない。抜いてやった、追いつけないところまできてやったと西 武池袋は声高らかに笑う。 あの時代、苦しくも明日のことしか見なかった時代。今、過去ばかりを振り返って生きる自分達にはもう訪れない、若 く苦い生活。それを遠く思いながら、東上は昔の西武池袋を思った、夜の空気は昼間に比べて冷たい。それは今も昔 も変わらないのに。 「・・・なあ、西武池袋。お前は何が欲しかったんだ?」 東上は落ち着いて西武池袋に問うた。ほぼ同じ時間と地域を生きるものとして、東上は少しだけ西武池袋の言葉をき きたいと思った。あんなに可愛かった武蔵野鉄道時代、彼は何も欲しいといわなかった。明日が今日の続きであること を切に祈っていた。それ以外、彼が欲しかったものは知らない。西武になってからはもちろん当然。 「なんだと思う?」 「わからないから聞いている。」 冷静な東上なんて西武池袋には面白くもなんともない。興ざめして声の勢いが落ちる。つまらなさそうに続けた。 「少しは頭を使ってもいいものを・・・そうだなあ。」 昔、謙虚に三歩後ろを歩いていた在りし日の西武池袋の姿を思い浮かべて東上は悲しくなった。あんなにいい子だっ たのに、なぜこんなになってしまったのか。それは、堤だけのせいではないような気がするのだ。もっと別の誰かのせい のような気がした。東上から、可愛かった武蔵野鉄道を取り上げてしまったのは誰だったのか。 不機嫌そうに腕を組んでいた西武池袋は眉を思いっきり寄せてから、ため息をたっぷりついた。それから東上のすぐ 横まで近寄る。あともう少しで触れそうなほどの近距離。 「お前が私のものになってくれたらよかったのに。」 肌の匂いまで感じ取れそうな距離にきても西武池袋の顔立ちは美しい。しみ一つない肌はきめがこまかく、よく見ると そばかすのある東上の肌とは違っていた。 青天の霹靂ともいうべき告白に東上は言葉を失い、一歩後ろに下がった。それをおいかけなかった西武池袋も一歩 下がって距離をとった。 「・・・お前のは、まどろっこしいんだよ!」 「しかし、ストレートにいっても貴様は私のものにならないだろう?」 「乗り入れ先取られて好きになれるわけもないだろうが!」 「だろうな。だから、私はお前の恋を邪魔しよう。西武の誰を使ってでも、私自身を使ってでも、全力でお前の恋を潰 す。」 甘く睦言を囁くように言う西武池袋に東上は見とれてしまった。そして、ああ武蔵野鉄道を変えてしまったのは自分だ ったのかと、どうしようもない後悔をしたのだった。 (’10,4,4) |