営業成績が悪いことも、売り上げが他と比べて低いことも、東北と開業時期がずれたことも、現実なのだから仕方な いと彼女は考える。それに、電車は乗る人がいる限り必要なものだ。たとえ、お客様が少なかろうとも。 「ファステックはどうなった?」 涙で顔をぐちゃぐちゃにした彼女が部屋に帰るなり、上越はどうしたとも聞かずにファステックの事を聞いた。 「・・・すみません・・・」 「っ役立たずだな!」 延々と荒々しい口調で愚痴を言い続ける機嫌の悪い上越の琴線に触れぬよう、越子は黙って部屋の隅に小さくな る。共用の部屋では逃げるスペースもない上に、今部屋を出ればさらに機嫌を悪化させそうだった。 別々の部屋をどうしてくれないのか会社を恨む。同じ路線であるといえ男女なのだから分けて欲しいが、誰も越子の 苦しみを理解してはくれないだろう。 「お前もさぁ、もうちょっといろいろ頑張れよ。色っぽく脱ぐとか、股開くとか。」 上越の要求はいつも越子の現状発揮できる実力を超えていた。定時運行、降雪時の対処、トンネルでの減速など、 越子は上越がいなくても独りでもフル企画の新幹線を走らせることが出来るのに、上越はそういうことを越子に求め ず、プライベート的なことで無理な要求をする。 仕事のことならば越子はなんだって頑張ったし、出来るまで努力したけれど、越子にはどうしていいことばかり上越か ら求められて、越子はただ実現できないこととその謝罪をすることしかできない。 「無理です・・・」 越子は弱弱しく頭を振る。そんな仕草すら気に入らないのか余計に苛々とした目で越子を見た。越子はその目が苦 手だ。その目で見られることよりも、上越がそういう目をしていることが嫌なのだ。もっと楽しく生きられないのだろうか。 きっとそういう役割は私が受け取って生まれてきたのかもしれないと越子は上越を一種哀れんだ。 「もう嫌なんだよ、古いお下がりの車輌はさぁ!」 「それはそうだけど・・・」 「口答えするな。」 「はい・・・」 「なあ、仕込んでやるから足開けよ。」 シャツ一枚で小さくなっていた越子はさらに小さくなる。その目からぽろぽろと涙がひっきりなしにあふれているのに、 上越はそのとき初めて気付いた。 自分の片割れの涙を上越は乾いた心で見る。どうしてこの女はここで泣くのか、もっと効果的な場所で泣けばいいの に一銭にもならない場所でなくなんてなんて計算の出来ない愚かな奴だと、己の片割れを上越は見下した。自分が女 ならばもっと女であることを利用できるのに。 「・・・・僕の手を煩わせるな。」 上越は自分の苛立ちを自分の中で処理しきれなくなった。いつもなら東北にあたってなんとかなるのに、今自分の前 には頭の悪い愚かな片割れしかいない。上越は男女どちらでも抱けたが、片割れを抱くことだけは今までしなかった。 それは道徳観からなのか、それとも幼女のような平らな胸をした少女に性的興味がなかったからなのか。今はもうどう でもよくてはけ口を手っ取り早く求める。 越子は口にタオルが押し込められて、押えなくたって助けをよぶことはできない小さな口から嗚咽を漏らし、布地に吸 い込ませた。越子は上越に何をされたって抵抗する気はないのだけれど、抵抗されると思っているのか上越は越子を 押さえつけた。悲しくもないし辛くもないのに涙がこぼれる。越子は自分でも不思議だった。 「目障りだから泣くな。」 恐ろしい顔をして越子を見下ろす上越に恐怖と、そうではない期待の何かが入り混じったものを感じて越子は泣い た。それは必ずしも悪いものだけではなかった。 (これはセックスなのか、オナニーなのか。) 越子の年の割りにしっとりとした若々しい肌にふれながら上越は自問した。繋がったところから溶け合って一つになっ てしまうんでないかと怖くなったが、そんなロマンティックな妄想は実現しなかった。ただ、一つになってしまったかと思う くらいの快感に押し流されて、上越は締め付けれらるがままに中に精を吐き出した。 シーツには赤い染みがついていて、越子はそれから目を背けた。初めての性行為は痛いばかりで気持ちいいもので はなかったし、もう一度したいと思うようなものでもなかった。 「東北はノンケだから、お前なら抱いてもらえるだろうよ。」 想像していたよりもいいものではなかったそれがようやく終わって解放されたときに、越子の胸中によぎったものはわ からない。ただ、越子は疲れた目で上越を見ないように目を閉じた。どうせ同じベッドで眠る二人は汗の引かない体も そのままに眠りにつく。何もなかった日と同じように、背中合わせでねむりについた。 翌日も、上越は越子を抱いた。昨日と違って何をされるかわかっている越子は抵抗せずに股を開き、上越が求める がままにした。これで上越は喜んでくれるのだろう、越子はそう思っていたのだけれど、行為が終わった後に言われた のは全く逆のことだった。 「まぐろ。」 まぐろの意味がわからぬ越子は首をかしげる。 「何か、だめなの?」 「お前なんにもしないから抱いてもつまらない。もういい。」 上越はベッドから出て先ほど脱いだ制服をもう一度着る。昨夜は背中合わせとはいえ同じベッドで眠ったのに、今日 のあんまりな仕打ちに越子の目はまた潤んだ。 「何もしらない女に教えるのは僕の性に合わないって今気付いた。口直ししてくるからお前は東北んとこいって股開 け。」 「上越くん・・・?」 「初めてじゃないんだからそんな顔するな。僕に抱かれたんだから他の男に抱かれたってもうおんなじだろ?さっさと 支度していけ。」 またワイシャツ一枚で追い出されそうになったので、越子はなけなしの勇気と勢いでスカートをはいた。ストッキングも はいてないしブラジャーもないからワイシャツの下の乳首がすける。ああやだなあと思って涙がまたぽろぽろとこぼれ た。 シャツとスカートを一枚ずつきて、越子は東北の部屋の前に立った。前に来たときは何をしていいのかわからなかっ たし嫌で嫌でしかたなかったけれど、今越子の涙はひいていた。手のひらをぎゅっと握り締めて覚悟を決める。 越子は上越に見放されたくなかった。見放せない関係であるとわかっていても、越子は上越の不興を買うことが怖かっ た。初めての夜のように、今までのように同じベッドで眠れる日常を戻したいだけかもしれない。 越子は東北の部屋のドアをノックした。 (北子ちゃんがいたら、上越くんに追い出されたことをいって泊めてもらうか服を借りよう、もしも東北くんだけだったなら ば・・・) 東北だけならば?それは越子の覚悟だった。 ドアが開く。ドアを開けたのは東北だった。 「あの・・・北子ちゃんいますか?」 「今日は向こうにいっていて戻らないが・・・また、上越か?」 越子は東北の腕を握った。 「・・・泊めて、もらえませんか?」 「そうするしかないだろうな。部屋は貸すから好きに使え。」 東北は優しいから自分は別のところで寝ようとするだろうと想像がついていた。彼の優しさが今は面倒で越子はもう 一度袖を強く握った。その力は東北にも伝わる。 「一緒に、いてもらえませんか・・?」 越子の初めて精一杯撒き散らした媚態が東北にどううつったのか、越子は逆に腕を引かれて東北の部屋に入れられ た。そこまではいつもの東北だった。そこまでは。 翌朝、鍵のかかっていなかった部屋に越子が戻ると上越は既に出勤の準備を整えていた。いつも遅刻ぎりぎりなの に今日は珍しい、雨でも降るんじゃないかしらといぶかしがりつつ、越子は上越を無視して出勤の準備を始めた。 「越子、首尾はどうだった。」 「上越くんこそどうだった?」 「うまくいったよ。」 「なら同じね、私もうまくやれたわ。ファステックをもらえるかはわからないけれど。」 上越の顔が歪むのを、越子は不思議な思いで見た。せっかくうまくできたのに、上越くんが望むとおりに、逃げ出しそ うな体を押さえ込んで大好きだと言ってきたのに。 「・・・ファステックをもらえるように、もっと頑張るわ。」 きっと、まだ結果が出ていないからだと越子は思うことにする。越子はそれ以上上越を視界に入れないように務めな がら新しいワイシャツをきていつもの制服に袖を通した。 「越子。」 上越の無表情な声は彼の機嫌が悪いときだ。部下や同僚にはわかりにくい男だが越子にはストレートな感情を見せ る上越が好きだ。けれど、越子は上越に構わず、目をあわさぬまま部屋を出る。 「今日も一日、がんばろうね。」 (上越くんが喜んでくれるまでがんばろう、あともうちょっと、ファステックをもらえるまで。) 越子はパンプスを履いた足に力を入れた。一歩一歩、地面を蹴るように歩く。 不安の波に押しつぶされないように。 東北が北子に変わって八戸へいってしまった今晩、越子はとくにすることもなく、定時に上がれたのでそのまま部屋へ 直帰した。3日もろくに眠っていないから自分のベッドで泥のように眠りたい。越子の体は素直な欲求を訴えていて、シ ャワーをさっと浴びたらすぐに寝ようと思っていたから上越が部屋にいない方が都合が良かったのだが、普段ふらふら といなくなることも多々ある男は憮然としてソファに腰掛けていた。制服から部屋着に着替えていて、少し残業分の仕事 を手伝ってくれればいいのにと心の中で憎まれ口を叩いた。 「おつかれさま、上越くん。今日は早かったの?」 「新潟から直帰したから。お前はとろいから残業か?それとも東北のところにでもいったのか。」 上越が東北に苛立つ原因が越子にはわからないから、余計不安にさせられた。それでも、さらに苛立たせないよう言 葉少なにシャワーを浴びる準備をするため言葉すくなに上越を通り過ぎクローゼットへ向かう。 「おい、越子。ちょっとこっちこい。」 びくっ、としたが越子は素直に上越に従ってソファに座った。上越の前には空の缶ビールと飲みかけの缶ビールが置 かれている。越子は自分の分を取ってくるか考えたが、席を立って上越が怒るのは嫌なので黙って座っていた。 「・・・お前はさか、何考えてんの?」 「え?」 「俺にいわれるがまま東北のところにいってさぁ、意思とかないわけ?」 「それを、私にいうの?」 「お前にしか言わないだろう。」 「そうねぇ・・・。」 越子は一瞬ためらったが、意を決して強く言い切った。 「上越くんのためなら、なんだってするわ。」 それは彼女の心からの言葉だった。たった二人の自分のために、二人もいる自分のために。彼が悲しむと彼女も悲 しかった。彼女が悲しいとき、彼も悲しいのかはわからないけれど。 「上越くんがいないとだめなの。」 しんしんと降る雪のように、静かに全てを包み込む雪のように。日本海側特有の、全てを押しつぶす雪のような愛を。 「だからいいの。上越くんは私を好きなようにしていいの。」 「上越くんのためなら、東北さんのところにだって行くし、寒い外に放られたっていいわ。」 誰かに必要とされたい上越の心は一部救われた。けれど、越子がどれだけ上越を必要として上越に縋って上越を愛 したとしても、自己愛では上越を満たしきれない。 「どうしても私じゃだめとわかっていても、上越くんが好きなのよ。」 越子の目から涙がぽたぽたと落ちてスカートを濡らす。目をぎゅっと閉じて唇をかみ締める越子を慰めてやりたいの だが、なんといったらいいのか上越にはわからない。他人の懐をえぐる言葉は知っていても、自分に優しくする言葉は 持ち合わせていない。 「・・・おまえは、馬鹿な女だなぁ。」 聞かなければよかった、と上越は後悔した。告白を聞いても何もしてやれないのならば聞くべきでなかったのだ。 「ええ、馬鹿よ。馬鹿じゃなきゃこんなことするわけないわ。私は嫌だし、東北くんにも失礼だし、上越くんは不機嫌に なる。これでファステックがこなかったら誰も得しないわ。」 果たして東北はどうだろう、と上越は思ったが越子をおもんばかって何も言わなかった。自分よりずっと大切にしてく れるであろう男に、自分からけしかけたものの越子を渡すのは惜しかった。それは恋心ではない、越子同様、自分自 身に対する自己愛とかそういう類のものだ。 「私たちは幸せにはなれないね。」 それはどちらがいったのかわからないが、二人は顔を見合わせて軽蔑しあった。 「私はずっと上越くんの側にいるわ。」 当たり前のことをあえていう、越子の愛は重かった、上越を押しつぶすように少しずつ圧力をかけてくる。それでも上 越はもう一人の自分からの自己愛を、黙って受け入れようと思った。そうして二人で死んでしまえればファステックを恋 焦がれなくて済むと、やけくそになって思った。 (2010.8.1) |