地下鉄路線のために用意された休憩室に来るのは二人きりしかいない。ようやく丸の内に心を開きかけた銀座は、 丸の内以外の人間が休憩室に足を踏み入れると忌々しげに睨むので、用がある人間はノックをするものの、部屋の中 に入ることはなくなった。だから今も二人っきりである。銀座の入れた紅茶を並べて、二人は資料を読んでいる。 「ねえ、銀座。」 「ん?なに、丸の内。」 分厚い資料を手にしていた銀座はそれを一旦机に置いて丸の内を見た。 「構ってー。」 自分の椅子を降りて銀座に擦り寄る丸の内の行動に銀座はまだ慣れないのだが、けして嫌な気持ちはしない。人に 懐かれた事などなかったから自分でも照れているのがわかる。床にひざをついて銀座のひざに頭を乗せた丸の内はに こにこと天真爛漫な笑顔を銀座に向け、銀座も上品に微笑み返した。なんてことない、ここ最近の日常のワンシーンだ ったのに。 「俺は銀座の犬になるよ。」 いきなり、にこにこと笑ってそんなことを口にする丸の内に銀座は絶句した。以前彼のことを駄犬と吐き捨てたことを 覚えているのだろうか、やはり僕は疎まれているのだと思って全身の血の気がすうっと引いていった。 丸の内はそんな銀座に構わず、先ほど同様愛玩犬のように銀座に擦り寄り、上目遣いに銀座をみた。 「銀座のためならなんだってする、本当だ。上司の妾を寝取るのだって、上層部が銀座には見せない新線の機密情 報を盗むのだって、他路線との交渉だって、銀座が願うならなんだってする。」 「だから、命令して、銀座。それから笑って。」 丸の内は優しい、自分を受け入れてくれていると思っていた銀座は丸の内を嫌うというよりも絶望に落ちて後悔した。 一度懐に入れてしまえば銀座は相手に若干依存してしまってもう手放せなくなってしまう、そんなことに気付かせてくれ たのも丸の内だったというのに。 「・・・やっぱり、君は僕のことを許してないんでしょ。」 「銀座、」 そうじゃない、と丸の内は首を横に振る。 「大好きだよ、銀座。俺は銀座に捨てられたくないんだ。」 「そんなこと、君が不安になるようなことじゃないよ。」 大好き、という丸の内に少し救われつつ、まだ後悔の真っ只中にいる銀座は弱弱しく丸の内を退けるが、丸の内は気 にせず銀座の手を払ってまとわりつく。 「俺は駄犬じゃなくて忠犬だってところ見せたげる。ハチ公だって真っ青だぞ!だから、笑って、銀座。」 ことさらおどけて言った丸の内に銀座が顔をゆがめた。人の悪そうな、といった方がしっくりする笑い方だった。 「そうじゃなくて、もっと、ふんわり笑って。そうやって笑うのは、俺に命令するときだけでいいんだぞ。」 頬に両手を添えて、丸の内は銀座に笑い方の指南をする。丸の内の手のひらは温かくて柔らかくて、銀座はその手 につられて柔らかく口角を上げた。 「そうそう。みんなが騙されるように、『銀座』のイメージに合うように。」 「でも、みんなに愛されているのは君の方じゃない。」 早川がいた頃からの社員は別として、大半の特に五島が連れてきた社員は銀座に畏怖を抱きつつ、丸の内の方に 愛着があるのは明らかだった。人懐っこく誰とでもすぐに打ち解ける丸の内がうらやましい銀座はいつもその光景を 遠目に見ていた。 「俺のことを愛してくれるのは、銀座だけでいいんだ。」 「俺の全部を、銀座にあげる。」 早川は地下鉄道を置いていなくなった。最後、彼の側にいたのは彼の最愛の家族だったのだろう。仕事に並々なら ぬ情熱を注いだが、家族を愛した人でもあった。早川はけして銀座だけをみてくれたわけではない。五島も、家族をも ち東急を有し、公職にもついていた。 銀座だけを愚直に見てくれる人はいままで一人もいなかった。銀座は、愚直に早川だけをみていたのに。 「俺は銀座だけのものだから。」 『銀座も俺のものになって。』そういわない丸の内が愛おしくて、愛おしくて、仕方なくて、銀座はぎゅっと丸の内を抱き しめてなかなか離さなかった。服越しに伝わる体温が痛々しいほど愛おしい。 「・・・食べちゃいたいくらい好きだよ。」 銀座がそういうと、丸の内は大型犬のように体中をすりつけながらまた銀座を蕩かす甘言をあたえる。 「銀座が食べたいときに食べていいよ。」 ああ、なんて可愛いの!と銀座は丸の内に恋をした。このときから銀座は丸の内に頭があがらなくなってしまって丸 の内に言われるがままに銀座の名に相応しい振る舞いを心がけるようになった。 「君の望む僕になってあげる。」 だから、絶対にどこにもいかないで、と銀座はいわなかった。 それから何十年もたったが、二人の関係はあまり変わらなかった。仲間が増えても銀座の一番は丸の内だったし、丸 の内は銀座のものだった。 今の銀座の部屋には毛足の長いラグが部屋のすみからすみまで敷いてある。しかし、どこでもごろりと横になれるよう に快適に作られた部屋で銀座が転がったことはない。 スリッパというよりルームシューズといったほうがふさわしい値段がしたものを履いて、銀座はお気に入りの椅子に座 って本を読んでいる。今日は丸の内が面白い、といっていた本を読んでいたがが、残念ながらそれのどこが面白いの か銀座にはいまひとつわからなかった。残念で幸運なことに、二人の本の趣味は全く異なっていた。おかげで二人は本 のことで口論をしたことがない。 「丸の内。」 読書に飽いた銀座の声を聞きつけて丸の内はとんでくる。風呂上りの丸の内は前髪を下ろしていていつもよりいくら か幼く見えた。 「なに?銀座。」 「用はないんだ。用がなかったら呼んじゃだめ?」 「そんなことないぞ、俺は銀座にいっぱい用があるんだぞ!その本はどうだった?」 「ああこれ?うーん、僕はやっぱりねぇ・・・」 「そうか、銀座の趣味に合わない本だからな。」 銀座は時々丸の内の知識に舌を巻くことがある。文学も教養として嗜む銀座だが、主とした知識は経営や経済といっ た実学が中心で、また実学を好む。それにたいして丸の内は最近出た小説も読むし、古い哲学の本も読む。カビが生 えたような大昔の本など、と少し思ってしまう銀座と比べて、丸の内はくどいいい回しやまどろっこしい話やお金にならな さそうな話も好んで読んだ。 「髪の毛を乾かしてあげるよ、ドライヤーを持ってきてくれる?」 「わかったぞ!」 走ってドライヤーを持ってきて近くのコンセントに差し込んだ丸の内は、あとは電源を入れるだけのドライヤーを銀座 に手渡した。 「め、つむってね。」 熱風が丸の内に髪にふきかかる。普段はきっちりとセットされた髪が今は水を吸って束になり、ドライヤーの熱風に 重たく踊る。それを指でばらけさせながら、均等に風があたるように銀座は丸の内の髪を梳いた。 後ろを見せた丸の内の姿は、まるで介錯人に全てを託し切腹する武士のようだ。銀座が生まれた頃にはもう武士な んていなかったし、まして切腹なんて見たことないのだけれど、無防備な丸の内の白いうなじを見てそう思ったのだ。 (2010年8月22日) |