あおぞら
濁った灰色の空からぼたん雪が落ちてくるのは花が舞っているようで、息を飲むほど美しい。
これは粉雪じゃわからない。砂のように軽く小さく、わびさびのような細かいものじゃこんなにはなやかにはなれない。
まとわりつく雪を払おうと傘を振り回したところで、重たく粘着質な雪はべったりとしがみついたまま重たくシャーベット状
に溶ける。
雪と水の間の中途半端なものは道路の上にも氾濫していて、靴の隙間から染み込み靴下を濡らす。駅からしばらく
歩いた西武池袋の足はもうびちょびちょだ。あるくたびに水音がしそうな革靴をひきずりながらホテルに向かって進む。
空を見上げる。半年前には人体を焼き付くすかと思われたような空が、むせかえるほどの熱気を照り返したアスファ
ルトが嘘のように冷たさにぐちゃぐちゃになっている。冬用のコートに手袋とマフラーをした姿は全く別の国の人のよう
だ。
ぼたん雪を捕まえて手袋にのせれば、幾層幾重にも重なった雪のかけらがじとりと溶ける。それはまるで恋のよう
に!なんてメルヘンなことを言いたくなる美しい景色に西武池袋はため息をつく。
前人未到の狭い雪原が広がる路地裏の行く手と、西武池袋が歩いてきた足跡がオレンジ色の街灯に照らされて奇
妙に立体的になっている。
マフラーに顔を埋めて息を吐き出すと顔の周りが一瞬暖かくなった。けれどあっというまに冷たく戻る。ゆるい寒さな
のだけれど、しとどに濡れた足を痛くするには十分な程度だ。西武池袋はエアコンのきいた暖かい部屋と、いれたての
温かいお風呂を想像してたまらなく興奮した。浴槽に身を沈めたとき、あぁこれが幸せというのか、と心から思える満足
感。このまま死んでもいいと許せる充実感が妄想から広がって西武池袋の身体中を充たし、冷たい体を前へ前へと突
き動かす。約束のホテルはもう目の前だ。
フロントから受け取った鍵でドアを開ければ暖房で暖められた部屋の空気が塊のように廊下に溢れだした。廊下も十
分に温かいのだけれど、部屋の暖められた空気はハコのなかで膨張し続けたスポンジのようなもので、どこかへ逃げ
出すチャンスを・隙間を探しているにちがいない。
靴とべとべとになった靴下をひっぺがすようにして脱ぎ、裸足になった西武池袋はペタペタとカーペットの上を歩いて
浴室に向かう。バスタブに入浴剤を入れてから蛇口をひねれば、みるまに入浴剤が泡になっていった。
それはそのままに、コートを脱いでハンガーにかける。Yシャツもスラックスも全部脱いでまっさらな全裸になった。
ゆったりと泡風呂につかり幸せを実感したあと、ソファにどかりと座ってテレビをつけた。画面ではいま人気の芸人達
がバカみたいなことをいってバカみたいに笑っている。
しばらくソファに座っていた西武池袋は何かを諦めた。のりのきいたシーツは温かい部屋と相反して冷たく固い。何も
考えたくない西武池袋はベッドに潜り込んで丸くなった。指先まで暖まった体は外を歩いていたときと裏腹にぼんやりと
広がるような感覚で、次第に眠気を誘う。
つけっぱなしのままのテレビがまぶしくてうるさい。それでもリモコンに手を伸ばすことがおっくうで西武池袋はきっちり
とふとんをかぶりさらに小さく丸まった。このままどんどん小さく丸まって、もっと小さくなって、最後は小さなちりとなり消
えてしまいたかった。明日が来る前に。
目覚ましをセットしたわけでもないのに、始発の時間に目が覚めた。電車がレールを走る音が体内から聞こえるよう
な気がして西武池袋は目を閉じ脈に手を当てたが、ごく普通の単調なリズムが指先に伝わるだけだ。
カーテンの隙間に頭を入れれば、夜明けを迎えぬ暗い冬空が見えた。窓ガラス越しに伝わる冷気に顔をしかめてカ
ーテンを戻す。エアコンのきいた部屋は嘘みたいに温かいのに。
チェックアウトギリギリまでいても今日の出勤時間に間に合うのでもう一眠りしようかともう一度ベッドにもぐりこんだ
が、レールの振動が体の体温上げて頭を回転させているようだ。相変わらずつけっぱなしのテレビには爽やかなアナ
ウンサーが爽やかなワンピースで爽やかに挨拶をしていて、眠る気をそがれてどんよりとした。仕方ないと体を起こして
テレビを眺める。目を閉じれば、テレビの音にまじって電車が走る音が聞こえる。この音に、昨夜待ち合わせをすっぽ
かした男の音も混じっているのだろうか。空耳は西武池袋の足音しか聞かせなかった。その中から必死に彼の足音を
探しているうちに、二度寝に成功していた。
予定では、二人でこの部屋を出るはずだったのに、もう時間は昼に近くて、西武池袋は一人だ。そろそろ出ないとチ
ェックアウトもそうだが勤務に間に合わない。遅番にしたから当然帰りも遅いが、そのことが面倒で、面倒でたまらなか
った。
待ち合わせた男はどうしてこなかったのだろうか。携帯に電話したっていいのだけれど、もしも普通に生活していたら
と思うと恐ろしくて発信ボタンを押せなかった。会えたはずの男の肌や指先や名前を呼んでくれる様子などを思い出し
て想像しては胃をぎゅっと締め付けられるような恐怖にみまわれた。昨夜、西武池袋は約束をすっぽかされるというと
んでもない無礼を受けた。それをさらりと受け流してなにもなかったかのようにまた待ち合わせをできるタイプではない
ので、これが最後の待ち合わせになってしまう。
(当たり前の明日がこない日もあるんだな。)
それはとっても当たり前のことだが、西武池袋はしみじみと噛み締める。視界がうるんでそのまま溢れて頬を伝った。
あとからあとから沸いてくる涙はそのまま顎を越えて首を滑り鎖骨をかすって胸に垂れる。大声をあげて自分に酔いた
くないから、一人きりなのに必死に声を押さえた。
そして、ワイシャツをきてスラックスをはき、コートを羽織って支度する。不変なく美しい西武池袋は自信を振り撒きな
がら外に出てみると、日差しに雪はすっかり溶けていた。
ふわりと風が舞い上がると、ほんのり温かい風は春の肌触りがした。またいつもの桜の季節がやってくる。どんよりし
ながら、しかし今年も新しく変貌を遂げる世界に感嘆しながら西武池袋は駅への道を、力を入れて進む。一歩、一歩。
雪に濡れてまだ重い革靴が迷いなく前に進んでいった。
(2011.4.24)冬に書き始めたため、季節はずれもいいところですみません。